こだわりアカデミー
樺太アイヌ語の最後の話し手「浅井タケ」さんは 私の生涯の師であり友だと思っています。
最後の話し手−消滅する樺太アイヌ方言
横浜国立大学教育学部教授
村崎 恭子 氏
むらさき きょうこ
1937年台湾台北市生れ。本籍は東京都新宿区戸山町。60年、東京外国語大学モンゴル語学科卒業。62年、東京大学文学部言語学科卒業。64年、東京大学院人文科学研究科修士課程終了。67年、同博士課程単位取得(言語学専攻)。
東京言語研究所専任研究員、東京外国語大学付属日本語学校助教授、北海道大学教授を経て、92年より横浜国立大学教育部教授。また、海外技術者協力協会、早稲田大学、韓国嶺南大学校、ソウル東国大学校、富山大学、高麗大学校(韓国)等でも非常勤で外国人向け、あるいは日本語教師向けの日本語教育に情熱を注いできた。大学時代より樺太アイヌ語の研究を続け、76年、その実績が認められて「第5回金田一京助博士記念賞」を受賞。
著書に「ユーカラ・おもろさうし」(92年、新潮社、共著)、また、アイヌの人たちの言葉や民話等をCDにまとめた「アイヌのことば」(91年、非売)等がある。
1995年1月号掲載
10年通って貴重な話や歌を録音
──嬉しかったでしょうね。タケさんには、そのテープの内容が分かったんですか。
村崎 詳細までは分からないんですが、だいたいこういうことを言っているということは分かりました。テープを聞いてものすごく喜んで、すぐに友達のように仲良くなって、次から次へといろんなことを話してくれました。子守歌や昔話、恋の歌等も入っていて、それについていろいろ教えてくれたんです。それを機に、その後週末や休日はテープレコーダーを携えてできるだけタケさんのところに通い、話や歌を録音させてもらって、ノートに書いてはチェックするという作業を10年間続けることになりました。
──先生の研究にとっても、ものすごい収穫でしたね。
村崎 本当にいろいろなことを教わりました。例えば、金田一京助先生が初めて世に紹介してくださったアイヌ民族の英雄叙事詩(ユーカラ、ハウキ等)は、今まで文献でしか残っていなかったわけですけれども、それが実際どう語られるのか、どういう節をつけて吟じられるのか、生の声で知ることができたということもものすごい収穫でした。
──アイヌ語を忘れてしまった方が多い中で、タケさんはよく憶えていらっしゃいましたね。
村崎 記憶力がすごいんです。実はタケさんは生来の全盲でしたので、その分雑念にとらわれず、言葉や音に敏感になれたということもあったと思います。
全盲の上に、幼い頃に両親を失い、終戦後樺太から引き揚げて間もなくご主人が亡くなり、その後はずっとひとりぼっちといった辛いことの多い人生だったにもかかわらず、愚痴をこぼすこともなく、とても明るく生きておられました。老人ホームでもみんなから「タケちゃん、タケちゃん」て呼ばれてアイドルだったんです。
幼い頃は、この世の中は真っ暗闇だと思っていたそうです。しかし言葉を覚えるに従って、外界の世界のことが分かるようになった。夜は暗いけど、朝になるとお日様が昇って光がさして明るくなるとか、木には葉っぱがついていて緑色であるというようなことまで分かっていました。
──頭のいい方でもあったんですね。
村崎 あんな素晴らしい方に巡り合えて本当に幸運でした。私にとってタケさんは、生涯の師であり友だと思っています。
1997年7月に『アイヌ新法』が制定され、アイヌ言語・文化振興の気運が高まる中、浅井タケさんの昔話54篇をCD11枚にして発表。
サイト内検索