こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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樺太アイヌ語の最後の話し手「浅井タケ」さんは 私の生涯の師であり友だと思っています。

最後の話し手−消滅する樺太アイヌ方言

横浜国立大学教育学部教授

村崎 恭子 氏

むらさき きょうこ

村崎 恭子

1937年台湾台北市生れ。本籍は東京都新宿区戸山町。60年、東京外国語大学モンゴル語学科卒業。62年、東京大学文学部言語学科卒業。64年、東京大学院人文科学研究科修士課程終了。67年、同博士課程単位取得(言語学専攻)。
東京言語研究所専任研究員、東京外国語大学付属日本語学校助教授、北海道大学教授を経て、92年より横浜国立大学教育部教授。また、海外技術者協力協会、早稲田大学、韓国嶺南大学校、ソウル東国大学校、富山大学、高麗大学校(韓国)等でも非常勤で外国人向け、あるいは日本語教師向けの日本語教育に情熱を注いできた。大学時代より樺太アイヌ語の研究を続け、76年、その実績が認められて「第5回金田一京助博士記念賞」を受賞。
著書に「ユーカラ・おもろさうし」(92年、新潮社、共著)、また、アイヌの人たちの言葉や民話等をCDにまとめた「アイヌのことば」(91年、非売)等がある。

1995年1月号掲載


語尾に「内」「別」のつく地名はアイヌ語が語源

──先生は、言語学の中でもアイヌ語のご研究で有名ですが、一口に「アイヌ語」といっても、いろいろあるとか…。

村崎 そうなんです。言語学的に北海道方言、樺太方言、それに千島方言と大きく3種類に分かれます。私の専門は、樺太方言です。

──もともとは同じ民族ですよね。

村崎 ええ。それがだんだん分かれていって、言葉もお互いに通じ合わないほど違ってしまいました。昔は、樺太から北海道、それに本州の東北地方にもアイヌ人が住んでいて、アイヌ語が話されていた形跡があります。地名を見るとよく分かるんですよ。語尾に「内(ナイ)」とか「別(ベツ)」という文字のつく地名がありますでしょ。これはもともと“nay”“pet”というアイヌ語でしたが、日本語訛りの発音に変わってしまって「ナイ」「ベツ」になってしまったのです。両方とも「川」を意味する言葉です。

──アイヌ語には文字がないということですから、ご研究は大変だと思います。アイヌ語を話せる人というのは、まだ大勢いらっしゃるんですか。

村崎 いいえ。皆さん日本語になってしまって、今ではアイヌ語ができるアイヌの人というのは、本当に少数の古老だけです。千島方言については、明治時代の末に話し手は絶えてしまい、資料もわずかしか残っていません。

樺太方言については、私が学生の頃、1960年に、言語学者で私の恩師でもある東大の服部四郎教授から紹介していただいた藤山ハルさん(1900年樺太西海岸出身)が私の最初の先生で、当時、ハルさんの他4、5人くらいいたでしょうか。北海道方言については、今から30年前、服部先生をはじめ東大言語学科のスタッフで『アイヌ語方言辞典』編集のために調査した際確認された話者は、8人くらいだったと思います。

──そんなに少ないとは思いませんでした。先生の研究テーマである樺太方言については、その後どうなったのでしょうか。

村崎 実は1974年に藤山ハルさんが亡くなった時、樺太方言はこれで絶えたと思っていました。ところが10年前にNHKテレビの番組取材がきっかけで浅井タケさんという1902年生れの樺太アイヌの女性と知り合いまして、私も2年前まで北海道大学におりましたのでずっと交流を続けていたんですが、残念ながら今年(94年)の4月30日に亡くなってしまいました。ですから私が確認しているかぎりでは、樺太方言の話し手は絶えてしまったということになります。


近況報告

1997年7月に『アイヌ新法』が制定され、アイヌ言語・文化振興の気運が高まる中、浅井タケさんの昔話54篇をCD11枚にして発表。

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