こだわりアカデミー
モンゴル帝国は、民族や人種、言語、宗教などを超越した 国家だったのです。
モンゴル帝国の盛衰−世界を変えた遊牧民
歴史学者 京都大学大学院研究科教授
杉山 正明 氏
すぎやま まさあき

1952年静岡県生れ。74年京都大学文学部史学科卒業。79年同大学大学院文学研究科東洋史学専攻博士課程修了後、京都女子大学文学部東洋史学科専任講師、助教授、92年京都大学文学部史学科助教授を経て、95年現職に。92年に放送されたNHKの番組『大モンゴル』の監修を行う。著書に、『大モンゴルの世界』(92年、角川書店)、『クビライの挑戦』(95年、朝日新聞社)、『モンゴル帝国の興亡(上・下)』(96年、講談社)、『耶律楚材とその時代』(96年、白帝社)、『遊牧民から見た世界史』(97年、日本経済新聞社)など。
1998年9月号掲載
モンゴル帝国では、すでに紙幣が使用されていた
──日本とモンゴルの最初の出会いは、鎌倉時代の「元寇」ですね。あの時、日本は天候などが味方について、運良く逃れることができましたが、本当は強大な軍事力を持っていたんですね。
杉山 軍事だけでなく、すでに日本とは比べものにならないくらい経済活動が進んでいたすごい国だったんです。特にチンギスの孫、クビライの統治以降、経済を重視した政策がとられました。
当初は、ムスリム、ウイグルという2つの国際商業組織が、モンゴル帝国に資金や物資の調達をしていたんですが、商業や貿易が活発化するにつれ、仲間、組合という意味の「オルトク」と呼ばれる企業・会社組織の形に発展していったんです。
──今でいうところの企業グループのようなものですか。
杉山 そうです。
また、帝国の財政運営は、専売と通商の商業利潤でほとんどまかなわれる重商主義でした。
専売とは、その頃非常に貴重だったため、専売品とされていた塩の引換券「塩引(えんいん)」を発行し、通貨である銀と交換して収入を得るというものです。これは塩そのものを転売するのではなく、塩とリンクさせたいわば有価証券のようなもので、紙幣としても使用されていたんです。
──この頃すでに紙のお金があったんですか。それはすごいですね。
杉山 この頃の通貨は銀でしたが、帝国の拡大に応じきれるほどの銀が産出できなかったため、それを補う意味もあったんです。
そして、もう一つの収入源の方は、商取引から徴収する「商税」です。クビライは、都市、港湾、関門などを通る人々から徴収していた通過税を撤廃し、最終売却地で売却代金の約3%を商税として、1回だけ払えば良いことにしたんです。これにより、遠距離貿易の活発化につながり、流通量が増え、結果的には商税収入も増大しました。その上、民衆の税金負担額も低く抑えることができたわけです。これは、いわゆる間接税ですが、消費者が直接納税しない点で、内税方式の消費税ともいえます。歴史的に見てもかなり先進的な政策です。
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