こだわりアカデミー
400年の眠りから覚めた一乗谷遺跡。 都市全体の発掘により、戦国城下町の実像が 見えてきました。
よみがえる戦国城下町 − 一乗谷朝倉氏遺跡
歴史考古学者 国立歴史民俗博物館考古研究部 政治遺跡研究部門助教授
小野 正敏 氏
おの まさとし
1947年、神奈川県生れ。70年、明治大学文学部史学地理学科卒業。72年、福井県教育庁朝倉氏遺跡調査研究所を経て、86年より現職。著書に『戦国城下町の考古学』(97年、講談社)、共編著に『よみがえる中世6 実像の戦国城下町越前一乗谷』(90年、平凡社)、『古代史復元10 古代から中世へ』(90年、講談社)、『日本通史別巻3 中世の考古資料』(95年、岩波書店)など多数。
2002年1月号掲載
城下町発展の影に住宅事情あり!昔の借家は安かった?
──紺屋があの角に、鍛冶屋はこの通りをまっすぐ行ったところ、なんていう風に当時の様子が見えてくると、私としては戦国時代の不動産事情も知りたくなるのですが(笑)。
小野 実は今回は、一乗谷に限った調査のみならず、関連の調査も行なっています。
ちなみに、約400年前の借家料はどのくらいだと思いますか?
──まったく検討がつきません(笑)。
小野 そうですよね(笑)。実は驚くべきことに、町屋の借家料はとても安いんです。大工の一日の給料が、大体100文から110文くらいなのですが、対して住宅は、越前敦賀という港町の一等地でも、一年で500文から600文程度です。それも間口が7、8m、奥行きが12、13mの一戸建てですよ。
──一か月ではなく一年ですか? 一週間働けば、一年分が払えてしまうじゃないですか!
小野 うらやましい限りです(笑)。ちなみにカツオが36文、食用のウサギは25文ですから、やはり住居費の安さが目立ちます。この理由として考えられるのは、一般的に都市の町屋は借家が中心だったこと、特に城下町は当時新しい町ですから、人口を流入させ、都市を中心に機能させるためにも、市民、職人、商人を集める必要があったのかなと。
──なるほど、その活力になったのが、住空間の安さなのですね。
復元された町屋は、日本初の原寸大模型。ほとんど町屋に見世棚があったといわれており、その職種は紺屋や鍛冶、鋳師、大工などが多かった |
『戦国城下町の考古学 乗谷からのメッセージ』(講談社) |
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