こだわりアカデミー
生産技術よりもまず、道具として伝わった「鉄」。 鉄は『再生』『再利用』の文化なんです。
再生・再利用される鉄の、「鉄器文化論」
民俗学者
朝岡 康二 氏
あさおか こうじ
1941年京城(ソウル)生れ。64年東京藝術大学、66年同大学院修了。67年育英工業高等専門学校専任講師、85年同校教授、86年沖縄県立芸術大学美術工芸学部デザイン工芸学科教授、90年国立歴史民俗博物館民俗研究部教授、2000年国立歴史民俗博物館民俗研究部長、03年沖縄県立芸術大学長、06年大学共同利用機関法人人間文化研究機構理事などを歴任。また、道具学会(06〜08年)、日本民具学会(05年〜)会長なども務める。著書に『鉄製農具と鍛冶の研究』、『野鍛冶』、『鍋・釜』、『古着』『鉄製農具と鍛冶の研究ー技術史的考察』(いずれも法政大学出版)、『日本の鉄器文化』『鍛冶の民俗技術』(ともに慶友社)、『南島鉄器文化の研究』(渓水社)など多数。
2008年8月号掲載
朝岡 そうではないかと推測しています。
日本に製鉄技術がいつ入ったかについては、製鉄・技術史の研究者がいろいろ議論しており決着はついていないのですが、いずれにせよ、鉄器のかけらが入ってきた大分後のことのようです。
──なるほど。いわば、“鉄くずありき”、ということですね。
朝岡 ええ。
もっと大きな意味でも、鉄の文化は“鉄くずありき”だと考えています。というのも、鉄は、今も昔も再生産、再利用されています。形を少し変えて、そのまま使用されることもあれば、鍛造し直して使うこともあります。
要するに、鉄の世界は“古物”の世界・・・ これが面白いんです。
アジア各地の鍛冶屋1 (スマトラ島・メダン) |
船、鉄道、自動車と
再生産・再利用される“鉄”
──再利用といえば、電車や鉄道のレールが、駅舎や金敷などに転用されているのを見掛けたことがあります。
朝岡 そうですね。
現在、一番多く再利用されているのは、自動車の足回り部品のようです。板バネだとか、コイルバネだとか。
ちなみに、それ以前は船でした。鉄鋼船はもちろんのこと、帆船の時代でも、錨だとか舟釘に鉄は相当使われていましたから。
江戸から明治頃の資料には、秋田佐竹藩の沈没船を、地元の商人が引き上げて一儲けすべく、なんとか許可をもらおうと東奔西走する姿が記録されていたりするんですよ。
──つまりその頃にはすでに、商売として十分成り立っていた上に、商品として魅力的でもあった、ということですよね。鉄の流通体制があったことがうかがえる事例ですね。
アジア各地の鍛冶屋2 (ネパール・パタン) |
各地に鍛冶屋があったわけ
朝岡 もう一つ、私が鉄を面白いと思う理由に、日本中どこにも鍛冶屋がいたということがあります。
──確かに、以前は村々に鍛冶屋がたくさんありました。
でも、考えてみれば鍛冶屋は職人。職人とは基本的に村ではなく、城下町など、町に住んでいるものですよね。「鍛治屋町」という地名にも残っています。
朝岡 そこなんです。そもそも村には鍛冶屋がいるはずがないのに、実際には存在している。
そこで、いろいろ調べてみたところ、どうやら、江戸時代に営業行為を許可する鑑札(許可証)を持って出職(他に出掛けていって仕事をすること)をしていた職人がもとになっていることが分ってきました。
例えば、知多半島の尾張藩に属した大野という場所は、鍛冶の一大集結地でした。彼らは大野鍛冶と呼ばれ、尾張藩は出職株を決めて彼らの権利を認めていました。出職の権利を得た大野鍛冶は、周辺の尾張・美濃の村々に半年くらい寄留し、村の人々の注文を受けて、村の鍛冶小屋で働く。そこで、野良仕事で使う鍬や鋤の刃先の修理をしていたのです。鍬や鋤は使用に伴い摩耗したり曲がったりはがれたりしますから、それを度々直す必要がありました。そしてこの鍛冶は基本的には出職ですから、しばらくするとまた町に戻る。こうしたことを繰り返していたのです。
それが明治に入って居住の自由を得ると、出職先にそのまま移住するようになり、それが村の鍛冶屋になっていったようです。
アジア各地の鍛冶屋3 (中国・雲南) |
──継続的に村の中で仕事があったから、各地に鍛冶屋が生れた・・・。
朝岡 ええ、その通りです。
現代では、モノは壊れたら捨てるか、よくてもリサイクルに出されますが、かつては、直してずっと使い続けていたんですよ。
鍛冶屋は道具や素材の再生の場
──先生のお話からすると、鍛冶は直し職人だったというわけですね。
朝岡 その通りです。
ご存知かもしれませんが、鍛冶だけでなく、傘、下駄、着物、桶など、あらゆるモノの直し職人がいました。
こうした観点から考えると、どうやら、直すということと、モノの構造や形とは密接な関係があることが分ります。
アジア各地の鍛冶屋4 (ジャワ島・西ジャワ) |
──というと?
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