こだわりアカデミー
法隆寺は放火されていた!? 建築と歴史の視点から謎を読み解く。
「空白の美」の原点、法隆寺の謎を解く
東北文化学園大学教授
武澤 秀一 氏
たけざわ しゅういち
1947年、群馬県前橋市生れ。一級建築士。71年、東京大学工学部建築学科卒業。72年、同・大学院を中退し、東京大学工学部助手。97年、東京大学より博士号(工学)を授与される。建築家として用美強・建築都市設計にて設計活動を行なう傍ら、東京大学、法政大学、武蔵野美術大学にて講師を兼任し、99年より現職。88年、東京都建築士事務所協会主催の東京建築賞受賞。著書に『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書)、『インド地底紀行』、『空間の生と死―アジャンターとエローラ』(いずれも丸善)、『迷宮のインド紀行』(新潮社)など。現在、講談社ポータルサイトMouRa I 正言@アリエス(http://moura.jp/scoop-e/seigen/index.html?top_area=r)にて「マンダラの謎を解く」を連載中。
2007年8月号掲載
歴史的背景から読み解く 火災の謎
──単なる「再建」ではないとすると、どのような理由から現存の法隆寺は建てられたのでしょうか?
武澤 日本書紀の記述では、670年より前にも1度、法隆寺で火災が発生したとの記述があります。
また、2度目の火災で焼失したときの状況を、「大雨フリ雷鳴ル」と書いていますが、面白いことに、こういった表現の仕方は、法隆寺の火災のときだけではないのです。蘇我馬子と物部守屋の戦いのときにも、「大雨フリ雷鳴ル」が出てきます。
──つまり、「大雨フリ雷鳴ル」という表現は、いわゆる演出・効果だと…。では、雷のせいで法隆寺が焼けたわけではない?
武澤 そのとおりです。焼失する前から、新法隆寺(つまり現存する法隆寺)の建設計画があったのだと考えられます。日本書紀には旧法隆寺が焼失したと書かれていますが、現存する法隆寺の金堂の天井板が、火災より三年も前に伐採されていたことが近年明らかになりました。計画は、これをさらに遡ることになります。
──その計画とは…?
武澤 厩戸の没後のことですが、皇位継承問題が起こり、舒明天皇は厩戸の息子である山背大兄皇子を退けて天皇の地位につきました。ですので、天皇家側と厩戸一族のあいだには大変な確執があったのです。
山背大兄を筆頭とする厩戸一族は思わぬ襲撃を受けますが、父・厩戸の教えを守って争いを避け、一族は集団自殺を図ります。自殺の現場になったのが、厩戸創建の旧法隆寺でした。
厩戸は、没後も人々の篤い信仰の対象でしたから、その厩戸ゆかりの寺で一族が集団自殺をしたとなると、いよいよ厩戸への信仰が盛り上がる…。
──厩戸信仰がさらに強くなることで、アンチ天皇家に発展することを怖れたのですね。
武澤 そうです。そこで、法隆寺を全く別の性格のものにつくり替え、法隆寺から厩戸の血統色を抜こうとした。だから法隆寺が焼ける前から、新しい法隆寺に作り替える計画があったと考えられるのです。
そうすると、日本書紀にある2度の火災も、「放火」ではないかとなるわけです。
左は現在の法隆寺の伽藍配置。五重塔と金堂が東西・横並びで配置されている。右は、四天王寺の南北・縦一列の伽藍配置で、旧法隆寺もこの配置だった |
──放火犯は2度目の放火で法隆寺焼失に成功した…。
武澤 おそらく、新金堂(現存)がほぼ完成したところを見計らって、集団自殺の現場となった旧法隆寺を始末しようとしたのではないでしょうか。
──厩戸信仰を天皇家の威信にすりかえるという、大変な高等戦術だったわけですね。「聖徳太子」の法隆寺が放火されていて、現存する寺は二代目だったとは驚きましたが、歴史的背景とつなげて考えると、大変興味深いものがあります。
『法隆寺の謎を解く』(筑摩書房) |
武澤秀一先生が、『マンダラの謎を解く 三次元からのアプローチ』を上梓されました。講談社のポータルサイト「MouRa」のコンテンツ「正言@アリエス」での連載をもとに、加筆修正したものです。立体マンダラの豊饒な空間構成を、インドと中国の宇宙論をもとに考察しています。さらには、マンダラが日本においてどのように変容してきたのかについて、空海の構想などを交えて言及されています。
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