こだわりアカデミー
「徒歩交通・100万人都市」、江戸。 その広さは、江戸城を中心に一時間半で歩ける 範囲だったのです。
百万都市・江戸のまちづくり
地理学者 立正大学地球環境科学部教授 日本国際地図学会会長
正井 泰夫 氏
まさい やすお
1929年東京生れ。53年、東京文理科大学(現筑波大学)地理学科卒業。60年、ミシガン州立大学大学院博士課程修了。62年、東京文理科大学理学博士。63年、立正大学地理学科講師、74年、お茶の水女子大学教授、75年、筑波大学教授を経て、84年、立正大学教授に。現在、日本国際地図学会会長。日本地理学会元常任委員。日本地理教育学会元会長。主な著書は『アトラス東京』(86年、平凡社)、『城下町東京』(87年、原書房)、『江戸・東京の地図と景観』(2000年、古今書院)、共著に『日本地図探検術』(99年、PHP研究所)など多数。
2000年4月号掲載
ゴミ問題から人口流入制限
──現在、東京は人口過密状態です。その上、世界一の巨大都市圏ですが、江戸時代はどうだったのでしょうか。
正井 最初家康は、江戸の「まち」を少なくとも百万人都市にしようとしていました。関西の二大都市、京都・大阪に対抗するためです。
当時この二大都市の人口を合せると、約50万人。経済的・政治的にも力をつけるには、その倍の100万という数の人口が必要だったのです。実際、約100年経った元禄の頃には、100万人に達しています。
──当時の江戸は、現在の東京よりも面積はかなり小さかったと思いますが、100万人以上の食料を江戸だけで賄うのは大変だったのではないでしょうか。それに関東平野は「関東ローム層」上にあって、いい作物はあまり育たない土地だったと言われていますよね。
正井 確かに作物、特に米の収穫はそれほど望めません。それも見越して、船で日本各地から食物を運びやすいよう、海の近く、そして大きな川の近くに江戸の「まち」をつくったのです。
しかし実際のところ、人口が百万人ともなると、過密になり過ぎて都市としての機能を果たせなくなった。犯罪、住宅問題はもちろんですが、ゴミ問題も大変だったようです。
当時は、今のように収集はされておらず、ゴミは各住戸で庭に埋めたり、川に流したりしていました。当然悪臭もし、景観も悪くなります。そのため、人口流入制限をせざるを得なくなったのです。
──しかし、関東平野は広いんですから、人口流入制限をしなくとも、「まち」自体を一回り広げ、過密を緩和させれば良かったのではないでしょうか。
正井 この問題には、江戸が「徒歩交通都市」であったことが関係しています。当時は歩くことが主な交通手段でした。江戸城を中心に放射状につくられた江戸の「まち」の広さは、半径約一里半(約6−q)。これを徒歩時間に換算すると約一時間半かかります。この一時間半という時間が、一つの都市としての限界、または情報伝達の限界でもあるのです。
──一時間半と言えば、ちょうど今の東京圏サラリーマンの通勤時間くらいですね。
なぜ、徒歩交通にこだわったのでしょうか。
正井 江戸時代は鎖国をしていました。他国からの訪問者を遮断するだけではなく、日本から出ることも許されなかった時代です。だから家康は徒歩交通によって、狭い日本を広く感じさせよう、そして世界はとても遠いのだ、と思わせたかったのではないでしょうか。
──現在は、日本全国どこへでも日帰りできるまでに交通網が発達してしまいました。外国でさえも飛行機を使えば、ほとんどの国に一日で行くことができますものね。
老子の言葉に『小国家に少数の人民、それが理想郷だ』というのがあります。なまじ近代化し、科学文明が発展すると、社会が乱れるということの裏返しでもありますね。
『日本地図探検術』(PHP研究所) |
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