こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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「徒歩交通・100万人都市」、江戸。 その広さは、江戸城を中心に一時間半で歩ける 範囲だったのです。

百万都市・江戸のまちづくり

地理学者 立正大学地球環境科学部教授 日本国際地図学会会長

正井 泰夫 氏

まさい やすお

正井 泰夫

1929年東京生れ。53年、東京文理科大学(現筑波大学)地理学科卒業。60年、ミシガン州立大学大学院博士課程修了。62年、東京文理科大学理学博士。63年、立正大学地理学科講師、74年、お茶の水女子大学教授、75年、筑波大学教授を経て、84年、立正大学教授に。現在、日本国際地図学会会長。日本地理学会元常任委員。日本地理教育学会元会長。主な著書は『アトラス東京』(86年、平凡社)、『城下町東京』(87年、原書房)、『江戸・東京の地図と景観』(2000年、古今書院)、共著に『日本地図探検術』(99年、PHP研究所)など多数。

2000年4月号掲載


武士や大名屋敷は「山の手」、町人は「下町」に

──先生は、地理学の世界的権威と伺っております。また、幕末の江戸の地図を克明に再現し、「大江戸新地図」をつくられたそうですね。

本日は、現在の東京の前身である江戸の「まち」の成り立ちを中心に、いろいろとお話をお伺いしたいと思います。

正井 「江戸」が日本の中心になったのは江戸時代、1603年からで、歴史的にも日が浅い。それ以前までの主な都市は京都、大阪など西に位置していました。

──どうして家康は江戸に都市をつくろうと思ったのでしょうか。

正井 家康は、まず第一に京都、大阪の力の及びにくいところを選んだと思われます。最初に挙げられた候補地は、「鎌倉」でしょう。かつて幕府があった場所でもあり、「まち」としての形もあって、またそれ相応の人口も確保されていたからです。しかし、都市としての発展性、また水運の利用を考えると、家康から見て鎌倉は適していなかった。そこで考えたのが、江戸の地だったというわけです。

──なるほど。現在の東京を考えると先見の明があったと言えますね。

ところで、先生のつくられた江戸の地図を見ると、概ね現在の東京とそれほど道路網は変っていないように思うんです。特に道路網が複雑なエリアと、比較的整然と並んでいるエリアが明確に分かれているところなど、昔も今もあまり変わりませんね。

正井 江戸時代は、道路が複雑に入りくんでいる地域には武士や大名の屋敷が、整然としている地域には町人の住まいがあったのです。

──それには、何か理由があったのですか。

正井 武士や大名の屋敷のあった場所は防衛上、いわゆる迷路型や鈎(かぎ)型道路になっていました。隠れたり、物陰から攻撃したりすることができますよね。でも逆に、道が真っすぐだと敵が来たらすぐに攻められてしまう。

一方、町人が整然としたところに住んでいたのは、幕府が小さな土地に効率的に住まわせようとしたからです。

──地図を見ると、武士や大名の屋敷は「山の手」、町人は「下町」というように地形的な面からも分けられそうですね。

正井 その通りです。また、「山の手」は台地、「下町」は低地ですから、「水事情」も大きく関係しています。

当初は水道や下水道が不備でしたから、町人は水の得にくい台地、つまり「山の手」に住んだら生活ができません。川を利用した物流もありましたからね。だから、町人は川の近く、今でいう日本橋や銀座を中心に集中的に住んでいたんです。

──日本橋や銀座…。現在では、商業・事業地域の一等地ですね。

正井 一方、大名や武士は井戸を掘ったり、水を川から引いてきたりできるお金がありましたから、幕府が強制的に台地の上に住まわせたのです。

──ということは、幕府は庶民・町人の商業活動等を一定地域に集積させることで、都市機能を高めようとしていたとも言えますね。

大江戸臣地図(幕末・1850−1868年における土地利用)武家屋敷や大名屋敷などのある「山の手」の道路網は、戦いなどで有利になるよう迷路型、鈎型状にできていた(上)。
大江戸新地図(幕末・1850−1868年における土地利用)武家屋敷や大名屋敷などのある「山の手」の道路網は、戦いなどで有利になるよう迷路型、鈎型状にできていた。
町人の住んでいる「下町」は、狭い土地を効率的に活用し、また水事情や川を利用した物流を考慮した結果、基盤の目状に整然としていた(下)

町人の住んでいる「下町」は、狭い土地を効率的に活用し、また水事情や川を利用した物流を考慮した結果、碁盤の目状に整然としていた。


ゴミ問題から人口流入制限

──現在、東京は人口過密状態です。その上、世界一の巨大都市圏ですが、江戸時代はどうだったのでしょうか。

正井 最初家康は、江戸の「まち」を少なくとも百万人都市にしようとしていました。関西の二大都市、京都・大阪に対抗するためです。

当時この二大都市の人口を合せると、約50万人。経済的・政治的にも力をつけるには、その倍の100万という数の人口が必要だったのです。実際、約100年経った元禄の頃には、100万人に達しています。

──当時の江戸は、現在の東京よりも面積はかなり小さかったと思いますが、100万人以上の食料を江戸だけで賄うのは大変だったのではないでしょうか。それに関東平野は「関東ローム層」上にあって、いい作物はあまり育たない土地だったと言われていますよね。

正井 確かに作物、特に米の収穫はそれほど望めません。それも見越して、船で日本各地から食物を運びやすいよう、海の近く、そして大きな川の近くに江戸の「まち」をつくったのです。

しかし実際のところ、人口が百万人ともなると、過密になり過ぎて都市としての機能を果たせなくなった。犯罪、住宅問題はもちろんですが、ゴミ問題も大変だったようです。

当時は、今のように収集はされておらず、ゴミは各住戸で庭に埋めたり、川に流したりしていました。当然悪臭もし、景観も悪くなります。そのため、人口流入制限をせざるを得なくなったのです。

──しかし、関東平野は広いんですから、人口流入制限をしなくとも、「まち」自体を一回り広げ、過密を緩和させれば良かったのではないでしょうか。

正井 この問題には、江戸が「徒歩交通都市」であったことが関係しています。当時は歩くことが主な交通手段でした。江戸城を中心に放射状につくられた江戸の「まち」の広さは、半径約一里半(約6−q)。これを徒歩時間に換算すると約一時間半かかります。この一時間半という時間が、一つの都市としての限界、または情報伝達の限界でもあるのです。

──一時間半と言えば、ちょうど今の東京圏サラリーマンの通勤時間くらいですね。

なぜ、徒歩交通にこだわったのでしょうか。

正井 江戸時代は鎖国をしていました。他国からの訪問者を遮断するだけではなく、日本から出ることも許されなかった時代です。だから家康は徒歩交通によって、狭い日本を広く感じさせよう、そして世界はとても遠いのだ、と思わせたかったのではないでしょうか。

──現在は、日本全国どこへでも日帰りできるまでに交通網が発達してしまいました。外国でさえも飛行機を使えば、ほとんどの国に一日で行くことができますものね。

老子の言葉に『小国家に少数の人民、それが理想郷だ』というのがあります。なまじ近代化し、科学文明が発展すると、社会が乱れるということの裏返しでもありますね。

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「徒歩交通」だけの道をつくっては・・・

──ところで、現在の東京の交通網、主に鉄道は複雑で統一性がありません。おもしろいと思う反面、不便でもある。付け足し付け足しでつくられたからではないか、と思うのですが…。

正井 その通りです。1872年の東京・新橋−横浜間の鉄道が開通してから、地形面・輸送面を考えながらその都度付け足し、現在の複雑な放射状の鉄道網になっていったんです。

──初めから計画された鉄道網ではなかったのですね。

正井 そうです。当時は急激な近代化や地租改正に反対する百姓一揆などの騒乱のため、東京圏の鉄道網計画を立てる暇がなかったのでしょう。しかし、そのようにしてつくられてきたものでありながら、現在まで昔と変ることなく、またその重要性も絶えることなく続いているというところに、東京という都市のおもしろさがありますね。

──最後に、先生のお立場から、東京だけでなく、今後の都市づくり、「まち」づくりについてのお考えがございましたら一言いただけますか。

正井 今後、確実に高齢化時代が訪れます。鉄道を始めとした公共施設にエスカレーターやエレベーターを設置したり、バリアフリーにするなど、高齢化社会に対応した都市になることを望みます。

また、自動車の増え過ぎでどんな狭い道でも車が通る世の中になってしまいました。危険な思いをしたことのある人も多いのではないでしょうか。ここで提案ですが、車とすれ違わずに駅まで行けるような、徒歩交通だけの道をつくったらどうでしょう。個人的には、目的地には多少遠回りでも、安心して歩ける道ができれば…と思います。まあ、現実問題、消防や防災対策面を考えると難しいでしょうが…。

──江戸時代の「徒歩交通」は、都市に温かみを与えてくれるような良さがあったと思うのです。全面的に行なうのは困難でしょうが、その味をどこかに残していくのは良いことだと思いますね。ぜひ、継承していって欲しいものです。

本日は興味深いお話、ありがとうございました。


近著紹介
『日本地図探検術』(PHP研究所)

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