こだわりアカデミー
自然、生命、文化・・・。 専門化する学問分野を横断的に研究できるのが 「左右学」です。
人類はなぜ右利きになったか?
埼玉大学経済学部教授
西山 賢一 氏
にしやま けんいち
1943年9月19日新潟県三条市生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程終了後、71年九州大学理学部助手、77年東京大学薬学部助手・講師、81年帝京大学経済学部教授、89年国際大学教授を経て、93年より埼玉大学経済学部教授。専攻は文化生態学、経済情報学。37歳で生物物理学から経営システム科学に転身。経済学、経営学の世界に生物学等の自然科学の最新の成果や発想を取り入れる試みを続けている。「文系の学問は人を文化の面からとらえようとするあまり、人が生物の一員であることを忘れてしまった」というのが持論。主な著書に「企業の適応戦略」(85年、中央公論社)、「勝つためのゲームの理論」(86年、講談社)、「ニッチを求めて」(89年、批評社)「文化生態学入門」(92年、批評社)、「免疫ネットワークの時代」(95年、NHKブックス)、「左右学への招待」(同年、風濤社)等多数。社会経済システム学会会員、公共選択学会会員。趣味は博物館訪問。
1996年11月号掲載
DNAから台風まで、「左右」は何にでもある
—— 先生の著書「左右学」への招待を大変楽しく読ませていただきました。先生の提唱しておられる「左右学」とは、私が考えるところ、自然科学でもなければ、哲学、論理学と言ったようなものでもない。どういう学問ととらえたらよいのでしょうか。
西山 「左右学」というのは、現在の細分化、専門化した学問のあり方の常識を超越した学問だと思います。というのは「左右」というのはどの分野にもあるからです。「左右」を切り口にすれば、自然、生命、文化・・・といったさまざまな分野を横断的に研究できる、私は「対角線の科学」と言っていますが、その意味で、ものすごい広がりのある学問分野です。
—— なるほど、そう言えば「左右」は、われわれの日常生活のどこにでも存在しますね。「左手に茶碗、右手に箸」「車は左、人は右」等々・・・。
ところで、自然とか生命の領域には、どういう「左右」がありますか。
西山 よく、右回り(右巻き)とか左回り(左巻き)と言いますね。
例えば自然界では、台風の渦とか、地球等の天体の回転なんかが左右どっち回りかということがあります。また、生命の世界にも、DNAの螺旋や朝顔の蔓、さざえのような巻貝は右巻きか左巻きか、なんてね・・・。
—— なるほど。どちらかの方向へ回る、あるいは巻くというのも、確かに左右の概念が原点ですね。その意味では、宇宙規模の壮大な「左右」もあれば、遺伝子レベルのミクロの世界にも確かに「左右」があります。
でも逆に言うと、左右は、どちら側から見るかでまったく正反対です。「向かって右」と言ったりするように、自分自身の「右」と、向かい合っている他人の「右」は違います。右大臣、左大臣というのも、どっちが右大臣でどっちが左大臣なのか、はたまたどっちが偉かったっけ、なんて・・・(笑)。
西山 確かに「左右」というのはある面で曖昧です。「前後」とか「上下」というのは比較的はっきりしていて、言い間違ったりすることはあまりないですが、「左右」の場合、道を教える時など、右に曲がるとか、左に曲がると言うのを時々迷ったり間違えたりするように、こんがらがってしまうことがある(笑)。
例えば、時計回りを「右回り」と言って、螺子(ねじ)なんかも、人間が時計回りに回すのが右巻きの右螺子というように決められてきたわけですが、しかし、右螺子も反対側から見れば反時計回りということになるわけで、かようにこの右と左というのはある意味で曖昧なんです。でも一方、曖昧だからこそ、いろんな世界でいろんな角度から「左右」ということを考えることができるとも言えるんです。
—— 曖昧な部分を学問する、という面白さもあるんでしょうね。
この対談以降も著作活動も精力的に続けている。主なものに、「中論の思想」「ブッダの哲学」(法蔵館)「はじめてのインド哲学」(再版)「日本仏教の思想」「最澄と空海」(講談社)、「密教の思想」(吉川弘文館)「マンダラ瞑想法」(角川書店)、「An Introduction to the Philosophy of Nagarjuna」(Motilal)、「聖なるものへの旅」(人文書院)
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