こだわりアカデミー
戦国時代の有能な武将は 人材登用の面でも優れていました。
天下人の人事戦略
歴史学者 國學院大学文学部教授
二木 謙一 氏
ふたき けんいち
1940年(昭和15年)東京生まれ。68年、国学院大学大学院日本史学専攻博士課程修了。同大学日本文化研究所研究員を経て、現在国学院大学文学部教授。
主な著書は「中世武家儀礼の研究」(吉川弘文館・サントリー学芸賞受賞)、「関ヶ原合戦」(中央公論社)、「大坂の陣」(同)、「年表戦国史」(新人物往来社)、「合戦の舞台裏」(同)、「同盟と裏切りの条件」(同)、「慶長大名物語」(角川選書)などがある。
「慶長大名物語」(1990年発行)は数年前発見され話題になった木下延俊(日出藩主。豊臣秀吉の正室・寧々の甥)の日記「日次記(ひなみき)をもとに、大坂の陣直前の慶長18年(1613年)1年間の諸国大名の生活ぶりを再現したもの。
1991年8月号掲載
武器をつくる技術が文化も発展させた
──日本が初めて世界を意識した時代、まさに地球的規模で世の中を見るようになった時代なんですね。
二木 そうですね。また、城下町を中心に各都市の文化も発展しました。戦争の時代ですから、武器がどんどん変わっていきます。つまり、弓矢の時代から槍や鉄砲を使う重装備の戦争になっていったわけです。
そして、現代、人工衛星やミサイルの技術がいろいろな文化、建築技術などを進歩させるのと同じように、戦国時代も武器をつくる技術が、農具とか、灌漑、治水などに利用されたわけです。
武田信玄の信玄堤、斎藤道三の美濃の輪中などが有名ですね。
──もともとは軍事目的でやったことが、生活や文化の中にさまざまな形で生かされていったわけですね。
二木 それから戦国大名はあらゆる都市との交通網、そして領国内のバイパスや支線も造りました。
──今も残っていますか。
二木 それが江戸時代に、幕府が戦国時代まであった道路とか宿場を全部ふさいでしまい、大名行列などでは、回り道とか脇道を通さず、全部決めた街道を通らせるようにしたため、そうした道路は衰退してしまいました。ですから、江戸時代の主要道路は発達しましたが、信玄の棒道は残っているものの、信長がつくった道などは、今ではどこだったかわかりません。
──戦国大名の偉業が江戸時代になくなってしまったというのは残念ですね。
NHK大河ドラマ『花の乱』『秀吉』『毛利元就』および2000年『葵・徳川三代』の風俗考証などでも活躍。
1998年、『徳川家康』(ちくま新書)発刊。
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