こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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「奥の細道」は俳文の極み。 芭蕉の句は、イメージを無限に拡げてくれます。

現代に甦る松尾芭蕉

山梨大学名誉教授

伊藤 洋 氏

いとう ひろし

伊藤 洋

いとう ひろし 1940年、山梨県生れ。62年山梨大学工学部電気工学科卒業、67年、東北大学大学院工学研究科電気・通信工学専攻博士課程修了。同年、山梨大学工学部講師、助教授を経て、78年教授。95年、総合情報処理センター長。99年学部長。2002年副学長。共著に『核の時代をどういきるか』『まるごと図解 最新コンピューターネットワークがわかる』など。また、『えんぴつで奥の細道』(ポプラ社)を監修するなど、松尾芭蕉に関する国内最大級のデータベース「芭蕉DB」の運営者としても知られている。

2006年8月号掲載


芭蕉の本を監修。本当の専門は電気通信

──松尾芭蕉の「奥の細道」を鉛筆でなぞる『えんぴつで奥の細道』が大変な人気だそうですね。

先生はこの監修をなさっているので、てっきり国文学がご専門かと思っていたのですが、実は電気工学だそうで…。

伊藤 確かに、私はコンピュータやメディアといった電気通信が専門といえば専門ですが、少年時代から古典趣味的なところがある文学小僧でして、高校生時分から芭蕉はずっと読んでいました。

僕らが少年の頃というのは、「この国を良くするには、とにかく技術が大事。将来は技術屋になるんだぞ」ということを、親や先生からいわれた時代でして…。それで、私も技術系に進んだわけです。

──そうでしたか。もともと文学がお好きだったんですね。

ところでどうして今回、監修されることになったのですか?

伊藤 私のホームページで公開している「芭蕉DB(データベース)」がきっかけです。「芭蕉DB」は、日常生活の中で私の好きな芭蕉に関する情報があれば、メモを取り、土日や正月を潰しながら調べたりして(笑)、この10年間を掛けてこつこつ作成したものです。これが編集者の目に留まり、話を持ち掛けられたんですよ。

──インターネットで検索すれば、先生のページが上位でヒットしますし、あれは芭蕉に関する世界一のデータベースですよね。

芭蕉が足跡を残した旅の行程図。「奥の細道」は元禄2年3月から9月の半年間、深川から大垣までの旅だった。芭蕉この時46歳
芭蕉が足跡を残した旅の行程図。「奥の細道」は元禄2年3月から9月の半年間、深川から大垣までの旅だった。芭蕉この時46歳

えんぴつで名文をなぞれば、奥の細道の旅へ

──それにしても、『えんぴつで奥の細道』はすでに12刷増版になっているとか。どうして、このような習字の教則本が大ヒットしているのでしょう?

伊藤 まず、「奥の細道」が名文ということがあるでしょうね。元禄時代のものですから、日本語としてさほど難しいというものではありませんし、教科書などでも取り上げられることが多く、学校では必ずといって良いほど勉強している。にも関わらず、その頃はちっとも熱心に勉強しなかった…、という罪の意識もどこかにあるかもしれませんね(笑)。

出版社から読者アンケート結果を教えていただいたところ、読者は年配の方が多いようです。書くという行為は脳が活性化しますし、テキストの文をなぞることで、まるで芭蕉の足跡を辿っているような気持ちになるのでしょうか。

「奥の細道」は体言止めが多く、日本語としては少々突飛なところがありますが、俳文のテンポの良さが鉛筆運びにちょうど良く、「ゆっくりと書く」ことと「奥の細道を緩歩する」ことが重なり、臨場感があるようです。


「俳句」は不明確な世界。だからこそ膨らむ想像の世界

──それにしても、実際に「奥の細道」に触れてみると、実にすばらしい文章ですね。

伊藤 そうですね、「俳文の極み」です。

そもそも俳句は説明文などとは違って、事実をこと細かにすべて伝える必要はありません。言葉がそぎ落とされた、実に不明確な世界です。一方、近代人はものを読み伝える際には、ニュース原稿のようにいつもメッセージを正確に受け取る・送る努力をさせられてきました。いかに正確な表現で、事実をありのまま伝えるかを訓練されています。

例えば、「古池や蛙飛び込む水の音」を文面に忠実に理解しようとすると、蛙が水に飛び込んで水音がした、だから何なの?ということになりますが(笑)、俳句として考えると、人々がそれぞれの脳裏で各々の美観で想像した情景を創り上げる、いわば無制限の世界が拡がります。

いい加減な表現であるからこそ、無制限にイメージを拡張していける。また、そこから大きな世界に包まれている、という安心感のようなものが発生する。これが俳句の良さではないかと思います。

一方、現代人の社会生活は言葉や思想を明確にしなければいけないという合理的な世界の連続です。自由にイメージを拡大していける俳句の世界は、管理社会を生きてきたものにとっては、ほっと救われるような、自由で豊かな想像の世界といえるのではないでしょうか。

でも、もし会社で俳句のような表現を使用していたら、上司も部下も何をいっているのかがよく分らない、困ったことになるのですが…。

──(笑)。確かにそうですね。

芭蕉ゆかりの墨田川沿いには句碑が点在、散策者を楽しませている
芭蕉ゆかりの墨田川沿いには句碑が点在、散策者を楽しませている

芭蕉の出世の秘密は人とのネットワーク

──ところで話は変りますが、先生からみた芭蕉とは?

伊藤 芭蕉の生れはというと、農民に近い下級武士で、文学的素養を身に付けられるような環境ではありませんでした。しかし、江戸に出て、あっという間に人的なネットワークを築き、神田上水の維持管理をやったり、知遇を得てさまざまなところに出入りしています。

──いわば一介の農民がどんどん知遇を得て、出世していく…?

伊藤 そうなんです。俳人・山口素堂や仏頂禅師、徳川家康に縁が深い武家である秋元家の家老・高山伝右衛門等々、芭蕉がお世話になった人々は枚挙にいとまがありません。


挨拶上手は旅上手。芭蕉は挨拶の達人

──そういえば、私の友人でも、あっという間に人と仲良くなる変なのがいるんですよ(笑)。芭蕉も人に好かれる才能のようなものがあったのでしょうか?

伊藤 私が思うに芭蕉は挨拶の達人なんだと思っています。「奥の細道」でしたためられた俳句の多くは挨拶吟です。それぞれの土地に入って、その土地の人々が喜ぶようなネタを用意して、人と出会ったら良い挨拶をする。人々と交流の後に待ち受けるさびしい別れには留別吟を詠む。

いってみれば、旅の俳人というものは、ほぼ無銭旅行、懐寒い旅の身ですから、土地の人間に嫌われてしまってはどうにもならない…、そんな思いも根底にあると思います。

──確かに。出会いは大切… ですね。

深川の芭蕉庵と思われる所からすぐの清澄庭園の一角には、「古池や蛙飛び込む水の音」の句を刻んだ記念碑が。写真は庭園の池の亀。(写真提供:伊藤洋氏)<br>深川の芭蕉庵があったとされる場所から見える現在の隅田川の流れ。画像中央の「新大橋」は芭蕉も渡り初めを見ていたという。現在の橋は、1977年に建設されたもの(写真提供:伊藤洋氏)

(上)深川の芭蕉庵と思われる所からすぐの清澄庭園の一角には、「古池や蛙飛び込む水の音」の句を刻んだ記念碑が。写真は庭園の池の亀。
(写真提供:伊藤洋氏)
(下)深川の芭蕉庵があったとされる場所から見える現在の隅田川の流れ。画像中央の「新大橋」は芭蕉も渡り初めを見ていたという。現在の橋は、1977年に建設されたもの
(写真提供:伊藤洋氏)

伊藤 そうですね。

芭蕉は「野ざらし紀行」の道中で出会った、名古屋、岐阜、大津の人々に感動を与え、「天下に芭蕉あり」といわしめるようになったと伝えられていますが、そうした旅において、さまざまな人と出会い、経済的・精神的な援助を受けながら、それまでの俳諧と一線を画する作風を作り上げました。

それは身近なものの中に、さび・しおり・細み・かるみといったものを感じる新しい美意識に基づく作風であるといわれ、それまでの俳諧を根底から革新した、といっても過言ではないでしょう。

芭蕉はそういった意味で、俳諧における成功者ですが、一方、乞食趣味とでもいうのでしょうか、木曽義仲や杜甫など、人生がうまくいかなかった者や世捨て人に対し、憧れに近い共感のようなものがありました。

芭蕉はそういった古人を思ってか、晩年まで自分を責め立てるように旅に身を置いた、求道の士であったと思います。

──今や日本でもっとも有名な俳人となった芭蕉ですが、楽には生きられなかったようですね。また、新しい芭蕉の魅力に触れることができ、勉強になりました。

本日はありがとうございました。



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