こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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筋肉構造や体内成分の分析から 刺身の「おいしさ」を裏付ける

刺身のおいしさを科学する

昭和学院短期大学学長

畑江 敬子 氏

はたえ けいこ

畑江 敬子

1941年生まれ。お茶の水女子大学家政学部卒。同大学大学院家政学研究科修士課程修了、理学博士。86年お茶の水女子大学助教授、97年同大学教授に就任。2006年和洋女子大学家政学部教授、12年より現職の昭和学院短期大学学長に就任。06〜12年内閣府食品安全委員会委員。著書 『さしみの科学―おいしさのひみつ』(成山堂書店)、『食事設計と栄養のための調理科学実験』(光生館)、「スタンダード栄養・食物シリーズ6 調理学」(東京化学同人)。

2015年11月号掲載


海に囲まれ魚の種類も豊富。生魚を楽しむのは日本だけ

──先生の著書『さしみの科学』を興味深く拝読させていただきました。刺身を科学する、意外なテーマですね…。

畑江 私の専門は調理学で、どんな食材を選び、それをどういう風に調理すればおいしい食べ物になるかを科学的に分析する学問です。もちろん、「魚」も食材の一つですから、刺身も科学しているんですよ。

──刺身といえば、居酒屋にも高級料亭にも必ずメニューにありますね。日本人にとっては数ある料理の中で、かなり特別で身近な存在といえるのではないでしょうか?

畑江 そうですね。海外にもカルパッチョのように生魚にオイルやお酢などのソースをかける料理はありますが、日本以外で、生の魚をこれほど楽しんでいる国はありません。海辺に近い田舎などで生魚を食べている習慣はあるかもしれませんが、洗練された料理まで発展したのは日本だけだと言えますね。

──それはなぜ? 日本の国土が海に囲まれていて、人々の暮らしが海辺に近いからでしょうか?

畑江 そうですね。海に囲まれている上に、捕れる魚の種類がとても多い。動物性たんぱく質を摂取するためには、日本人にとって魚はとても身近な素材でした。また、日本は風土的に牧畜の習慣がなく、歴史的にも仏教思想伝来で獣肉食が敬遠されていた影響もあったと考えられます。

──なるほど。そう聞けば、確かに日本で刺身文化が発展したのは、自然な成り行きだったとも言えますね。


畑江 さらに、刺身の味を引き立てる調味料、例えば醤油などが発達したことも影響したと考えられます。

──確かにひと口に刺身といっても、魚によって食べ方も多様ですが、醤油は必ず使いますね。刺身には欠かせないものです。

畑江 醤油に限らず、わさび、ツマ(花穂やタデなど)、ケン(刺身の横に剣のように立てて盛る大根やニンジンな
ど)なども、刺身の味、見た目も引き立てる存在です。日本人の繊細さが刺身という食文化を発展させたのだと思います。

刺身のおいしさの要素は「食感」と「旨み」

──そうした刺身のおいしさを、科学的にご説明いただくと…?

畑江 まず、「おいしい刺身」とは何かと言われたら、何と答えますか? おそらく「新鮮さ」と言われる方が多いと思いますが、これは刺身のおいしさの決め手の一つが「コリコリ」とか「とろり」などと表現される魚独特の口触りにあるからです。魚が新鮮であればあるほど、この歯ざわりや歯ごたえが感じられるため、「鮮度のよさ」が重視されるのです。
でも実は魚によっては、この鮮度のよさがおいしさの決め手になるものもあれば、逆に新鮮であるがゆえに、かえって旨みのなさが目立つ魚もあるんですよ。刺身のおいしさの要素には、歯ごたえなどの食感と旨みの2つがあると考えており、こうしたことを科学的に解明しようとしているのが、私の研究テーマの一つです。

──確かに魚によって、味わいは違いますね。赤身と違い鯛や平目などの白身は、新鮮なほどコリコリした食感をおいしく味わえますが、まぐろなどの赤身はまるでおいしさが違う。白身魚の歯ざわりは、科学的に言うと、どういうことなのですか?

畑江 刺身で食べるのは魚の筋肉部分なのですが、筋肉は多数の「筋線維」が束ねられた構造になっています。筋線維は、コラーゲンなど、身の強度を保つ「結合組織」という線維質構造で覆われており、白身の方がこの結合組織が多いため、しっかりとした筋肉になり、歯ごたえが強くなるのです。

それぞれの種を6匹ずつ調査しグラフ化したもの。コラーゲン(すじ)が多いほど、魚肉が硬いことが分かる
〈畑江敬子氏提供のデータを元に作成〉

──では赤身の場合は?


畑江 赤身の魚は白身より結合組織が緩く、筋肉中の旨み成分が多い。そのため、より味が濃く感じられてとろりとした食感になるんです。

──旨み成分とは、科学的にはどういうものなのですか?

畑江 一般に、味に影響する成分は、アミノ酸や糖類など100種類以上あるのですが、中でも刺身の味を左右するのが「イノシン酸」という成分です。イノシン酸は、ATPという筋肉を動かすためのエネルギーを生み出す物質が分解されてできるもので、魚が生きている間は、ATPは分解されてもすぐにエネルギーとして再生されイノシン酸は少ないんですが、魚が死ぬと、ATPの分解とともにイノシン酸が増していきます。

──なるほど。それで水揚げ後、時間をおくとイノシン酸が増えて味が濃くなっておいしさを感じるという訳ですね。

畑江 はい。ですから、死ぬときに魚がバタバタすると、暴れるのにエネルギーを使ってしまい、イノシン
酸が減ってしまうため、そうならないよう、水産業者は苦しませずに即殺するのです。ただし、時間が経ち過ぎると、今度はイノシン酸の分解が進んで、逆に味が低下してしまいますが…。

──ほう。では、どの程度の時間を置くのがちょうどよいのですか?

 

畑江 魚の種類にもよりますが、実験の結果からだいたい水揚げ後7〜8時間後とされています。ですから、その程度の時間をおいて料理を出す料理屋も多いようですよ。

コリコリ新鮮なイカか? 甘味がぐっと増したイカか?

──料理人の経験による知識が実験結果によって裏付けられているともいえますね。でも、刺身料理は食感と旨み、どちらを優先すべきなのでしょうか?


畑江 魚の種類によっておいしさの要素やタイミングはそれぞれですし、保存する温度や処理の仕方によっても影響するため、残念ながら一概には言えません。また同じような種類でも素材によって異なる場合もあります。例えば、日本人がよく食べているイカですが、一般的にはイカの刺身は新鮮なほどおいしいというイメージが強いですね。でも、イカの中でも高級なアオリイカが刺身として一番おいしく食べられるのは、甘味と旨みが増す24時間後なんです。

──そうなんですか? イカ一つとっても、おいしさの引き出し方がいろいろあるんですね。もっと研究すればより多くの知恵も出てきそうです。でも、調理学というのは、いくらでも研究材料があって、食材の生かし方や調理の仕方など、研究のし甲斐がありそうな学問ですね。

畑江 はい。だから私はいまだに調理学にはまっています(笑)。実は今、「泡」にとても興味があるんです。ビール、シャンパン、卵白…さして栄養もないのに、どうして人間は泡を好んで食べているのか。不思議じゃありません?

──そういわれてみれば泡はよく食べますね(笑) なかなか面白そうなテーマです。ぜひその謎を解明していただき、そしてこれからもおいしい料理をつくるためのご研究を期待しております。本日はどうもありがとうございました。

   
魚肉が硬い場合は刺身を薄く切る。そうでない場合は厚く切る。そのため、カツオ(写真左上)やマグロ(写真右上)は厚く切り、ヒラメ(写真左下)は薄く切る。フグ(写真右下)はさらに皿の模様が透けて見えるほど薄く切る。なお、コラーゲンの多い魚肉は、煮ると軟らかくなる〈写真提供:畑江敬子氏〉


近況報告

畑江敬子先生は、2016年3月に昭和学院短期大学を退職されました。


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