こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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日本初の温泉学教授として 「本物」の温泉を守っていきたいと思います。

温泉教授の多彩な素顔 -モンゴル・自然文学・温泉学-

文学者・温泉学者 札幌国際大学観光学部教授

松田 忠徳 氏

まつだ ただのり

松田 忠徳

まつだ ただのり 1949年、北海道生れ。75年、東京外国語大学大学院修了。モンゴル学、アフリカ文学専攻。翻訳家、旅行作家、モンゴル研究家等として活躍する傍ら、99年より現職。モンゴル国立大学客員教授。専門は温泉文化論、観光文化論で、日本初の温泉学教授として話題となる。98年から1年8か月をかけて日本列島を2回縦断、2500湯を制覇。現在までに浸かった温泉は4300を超す。87年、モンゴル作家同盟賞受賞、2000年、モンゴル民族自由作家協会賞受賞。主な著書に『モンゴル−−蘇る遊牧の民』(96年、社会評論社)、『列島縦断2500湯』(2000年、日本経済新聞社)、『温泉力』(02年、集英社インターナショナル)、『温泉教授の日本百名湯』(03年、光文社)など多数。

2003年11月号掲載


チンギスハーンに憧れ、モンゴル文学の翻訳家を決意

──先生が日経新聞に連載されている「日本百名湯」という記事をいつも拝見しています。てっきり温泉の専門家とばかり思っていましたが、モンゴルの研究、アフリカ文学、自然文学、児童文学、旅行作家、写真家…等々、いろいろな顔をお持ちだということに大変驚きました。

本日は、先生のライフヒストリーを含めていろいろとお話をお伺いしたいと思っておりますが、そもそも最初に始められたのは、どの分野だったのですか?

松田 外国文学です。小さい頃から「言葉」というものに興味があって、詩や小説が大好きだったのですが、高校時代に世界の名作文学を読んで「将来こういう小説を訳す人になろう!」と決意したんです。それで、外国語大学を目指して勉強を始めたのです。

──外国文学への興味がスタートになったのですね。では、なぜモンゴル文学を?

松田 私は北海道は有珠山のふもと、洞爺湖温泉で生れ育ったのですが、小さい頃から野山を駆け回ったり、湖で釣りをしたりと、自分でもあきれるくらいタフな野生児でした。それで、大草原を駆け回るチンギスハーンに強い憧れを持っていたんです。

それに、人と同じことはしたくないという気持ちもあって、当時あまり研究対象となっていなかったモンゴルをやろう、と。また、1度決めたら徹底的にやるという性格もあって、大学受験前からモンゴル語1本に絞って勉強をしていたんです。しかし、当時モンゴルは社会主義国家で、日本とも交流がほとんどなかった。就職のことを考えて、英語やフランス語が活かせるアフリカ文学にも同時に手を付けたというわけです。

──なるほど。

ところで、一般にはあまり知られていないようですが、実はモンゴルは「詩」がとても盛んな国のようですね。

松田 そうなんです。モンゴルの3大祭りの1つは詩の朗読大会です。各県から勝ち抜いてきたつわものが、年末に首都・ウランバートルに集まって大統領の前で詩を競い合います。そこで優勝することは最高の勲章で、一躍“ 時の人”です。

モンゴルで最も尊敬され、有名になるのは、相撲の横綱と詩人といわれるくらいです。

──先生も、モンゴルでは大変な有名人だそうですね。社会主義時代から何回もモンゴルに招待されたり、文学者としていくつも賞を受賞されたりと。

松田 たまたま最初に翻訳した本がモンゴルの有力政治家が書いたものだったので、そこから交流が深まったんです。

──しかし、当時は研究活動をするにもご苦労されたのではないですか?

松田 そうですね。当時一番困ったのは本が入手しづらかったことです。そもそもこちらから行きたいと思っても招待されないと行くことができませんでしたし、行っても行動はすべてチェックされていました。

民主化後は、逆に「モンゴルの社会主義を世界に宣伝することに尽くした」と攻撃を受けたりもしましたよ。なるべく党派性が無い作品を選んではいましたがね。

──今では翻訳家としてだけでなく、モンゴル研究家の第一人者となられていますが、民主化から約10年が経った今、モンゴルはどういう状況ですか?

松田 私達のイメージとは違い、ウランバートルなんかは建物すべてにセントラルヒーティングが敷かれていますし、携帯電話もほとんどの市民が持っています。

しかし、少し都会を離れれば時の流れがまったく違って、自然を本当に大切にした生活をしている。衣・食・住すべてを自力で賄っていますしね。私は、そういう姿を心から尊敬しています。モンゴルを知ることで、私の人生はとても豊かになりました。

──誰もやっていないモンゴルに着目なさって、踏み込んでみたら素晴らしい宝の山だったという感じですか?

松田 そうですね。確かに、「僕の前に道はない、僕の後に道はできる」というような気持ちでやってきましたが、お陰さまで小道を作ることができたと思います。将来、これまでの研究のすべてを『モンゴル文化史』としてまとめることが大きな夢の1つです。


有珠山大噴火をきっかけに自然文学・児童文学作家へ

──先生には、自然文学者や自然写真家という別の顔もありますが、今度はそのお話をお聞かせいただけますか?

松田 先程お話ししたように、小さい頃から自然の中で育ったということもあるのですが、小学生の時に目にした「エゾシカが洞爺湖を泳いで渡った」という新聞記事がずっと忘れられなくて、1度この目で確かめたいと思っていたのです。洞爺湖に浮かぶ中島にシカが生息していたのは知っていましたが、5、6キロメートルもの距離を本当にシカが泳げるのかと…。それで、1977年の有珠山の大噴火をきっかけに本格的に調べることにしたんです。

──なぜ噴火がきっかけに?

冬の洞爺湖を泳ぐエゾシカ<写真提供:松田忠徳氏>

松田 どういうわけかあの時真っ先に思い浮かべたのが、その中島のシカのことだったんです。このすごい火山灰の中で彼らは生きているだろうか、と。そこで早速、島に渡って、1日中歩き回ってやっと生きているシカの姿を写真に収めることができました。「噴火以来初めての明るいニュースだ」といって、町の人がすごく喜んでくれましたよ。

これがきっかけで島に通い始めて、しまいにはモーターボートまで買ったんです。4年目にようやく念願の泳ぐシカの姿を撮ることができました。

──さすが、「1度決めたら最後まで!」ですね(笑)。

その後、シカはもちろん、クマゲラやキツネなど野生動物を題材にした子ども向けの本も書いていらっしゃいますね。これも有珠山の噴火がきっかけで?

松田 そうなんです。子どもの自殺が全国的に流行っていた頃でもあり、噴火の中で、クマゲラやキツネ、カラス、スズメ、ミミズ、そしてキノコなど、動物や植物が懸命に生きている姿を目の当りにして、子ども達に命の大切さを知ってほしいと思ったんです。ちょうど自分の子どもが小さかったので、そういう本を読ませたかったという思いもありました。父親が体を張って仕事をしている姿も見てもらえますしね。

──そういう思いが込められているから、先生の作品はどれも写真や文章が生き生きとしているのですね。


日本列島を2回縦断し2,500湯を制覇

──旅行作家、温泉学教授としての活動は、自然や児童文学からは飛びますね。

松田 実は、野生動物を追っていた時に重い機材を担いで歩き回っていたものですから、ヒザを痛めてしまったんです。私は病院が大嫌いなので針治療に通っていたのですが、「治療がイヤなら温泉で直したら?」といわれましてね。それで温泉めぐりを始めたんです。

下呂温泉(岐阜県)の野天風呂にて<写真提供:松田忠徳氏>
下呂温泉(岐阜県)の野天風呂にて
<写真提供:松田忠徳氏>

──それがきっかけで1人でキャンピングカーを運転し、日本列島を2回も縦断されたとか…。

松田 誰もやっていないことを徹底的にやるというのが信条ですから(笑)。

それに、ちょうど同じ頃、洞爺湖温泉に取材に来ていた週刊誌の記者から、「1人客だからという理由で有名ホテルに門前払いされた」という話を聞かされましてね。確かに私自身も、有名宿の姿勢には疑問を感じることも多かったので、「世間に知られていない温泉地の小さな宿でも素晴らしいところはあるはずだ、それを掘り起こそう」と考えたのです。

──その旅のレポートを北海道新聞に毎週掲載されていたそうですが、これが今の温泉ブームの火付け役になったそうですね。

松田 連載を始めたのは85年でしたが、その翌年、北海道だけで61万人も温泉地の宿泊客数が伸び、さらに翌々年は100万人近く伸びました。景気が低迷していた中で、温泉観光客だけは増えていき、いつしか観光産業が農業と同じくらいの規模になったんです。

本当は新聞連載を終らせて本を書いて止めるつもりだったのですが、それで観光客までストップしてしまったらどうしよう、と(笑)。結局、全国の温泉地を何度も巡ってレポートを書き続けることになってしまったんです。

──先生は次々に新しいものにはまっていかれる感じがしますが、温泉だけは続いているのは、そういう理由なんですね(笑)。

キャンピングカーで回った『日本列島縦断2500湯』の旅<写真提供:松田忠徳氏>
キャンピングカーで回った『日本列島縦断2500湯』の旅
<写真提供:松田忠徳氏>

松田 いえいえ、全部今でも続いていますよ(笑)。でも、正直いって、そういうガイド記事を書くことに飽きてしまいましてね。そんな時に、今の大学から温泉文化論を講義しないかという話をいただいて、教授になることを引き受けたのです。

「日本人にとって温泉は水や空気のようなもの」というのが私の持論なのですが、そんな身近な存在でありながら、実はこれまで温泉に関するまとまった文化史というものはありませんでした。しかも、「温泉学」という分野さえ確立されていない。これは、温泉を愛する日本人にとって大変ゆゆしき状況です。そこで、真の温泉文化を守るべく、大学で教鞭をとって温泉学を広めよう、と決意したのです。『モンゴル文化史』とともに、『日本温泉史』をまとめることも、大きな目標です。

──確かに、これだけ温泉好きな国民なのに、温泉学という分野がなかったというのは不思議ですね。それにしても、温泉学というのは医学、経済学、観光学、民俗学などさまざまな要素が絡んだ幅広い領域だと思うのですが、具体的にはどういうことを目指しているのですか?

松田 私としては当面、本物の温泉を守り、危機的状況から救うことを目指しています。

──危機的状況といいますと?

松田 実は、温泉と称されているものの中には、私達のイメージにある温泉とは程遠いものが少なくありません。塩素を大量に混入して消毒しながら、何回も繰り返し同じお湯を使う循環風呂だったり、ひどいところになると水道水を沸かして「温泉」と称しているところもあります。大規模施設ともなると1日に何百人という人が利用しますから、湯量が足りなくなるのは必然なわけで、その無理を穴埋めするためにそういう手法をとっているのです。

──愕然とする話ですね。ニセモノの温泉を見極める方法はあるのですか?

松田 温泉分析書で湧出量が十分かどうかをチェックする、浴槽からお湯があふれているか見る(あふれているのが良い)、匂いが塩素臭くないか嗅いでみる、などですが、1番いいのは直接宿に問い合せてみることですね。

ただ、最近では、私の声が届いたのか、一般の方達にも本物の温泉を見極める力がつき、ニセモノには足を運ばなくなっています。本物だけが選ばれ、生き残っていく。まさに今、温泉は単なる『ブーム』から1歩進んだ『本物』の時代に来ているといえるでしょう。

──ぜひ先生には、真の温泉を広める活動を続けていただきたいと思います。

松田 ありがとうございます。温泉は、単純に気持ちいいというだけでなく、人間の五感を野生に戻し、思考をリフレッシュさせる場所です。しかしそれは、本当に自分の気に入った温泉でないと意味がありません。

私は、日本人1人ひとりがそういう場所を持って、自分自身を見つめ直す事が、今まさに大事だと思うのです。特に、政財界のリーダーにです。歴史を見ると、家康や秀吉など時のリーダーは、自分だけの「MY温泉」を持って国の将来を考えていました。今のリーダー達は思考を再生させる自分の温泉を持っていない−−。これこそ、日本が低迷している要因の1つだと思うのです。ぜひ本物の温泉に出かけて、感性を磨いて欲しいと思います。

──私も温泉は好きですが、これからは本物の「MY温泉」を探したいと思います。本日は、楽しいお話をありがとうございました。


近著紹介
『温泉教授の日本百名湯』(光文社)

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