こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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どんなに医学が進歩しても 人々の病気を恐れる気持ちに変りはありません。

迷信から科学へ -病気でみる日本史-

医学博士 順天堂大学客員教授

酒井 シヅ 氏

さかい しづ

酒井 シヅ

1935年、静岡県生れ。60年、三重県立大学医学部卒業、67年、東京大学大学院医学研究科修了。順天堂大学医学部講師、教授を経て、現職。野間科学医学資料館常任理事、日本医史学会常任理事。医学博士。著書に『日本の医療史』(82年、東京書籍)、『新装版解体新書』(98年、講談社学術文庫)、『病が語る日本史』(2002年、講談社)、編著に『疫病の時代』(99年、大修館書店)など多数。

2002年12月号掲載


昔は、「怨霊」が病気の原因。疫病は「失政」のせい。

──本日は、先生がご研究されていらっしゃる「医史学」について、いろいろとお話を伺いたいと思います。まず、「医史学」とはちょっと耳慣れない言葉ですが、どういう学問なのでしょうか?

酒井 『医』と人との歴史を研究する学問です。過去の文献資料を元に、病気、治療方法、医師など『医』に関するあらゆる事柄について、その歴史や人間の生活との関わりを研究しています。

──実は今回、先生のご著書『病が語る日本史』を読ませていただきました。歴史上の人物の病気に関するエピソードや、時代を象徴する病の変遷など、とても興味深い内容でしたが、「病気に対する人間の気持ちは昔も今も変らないな」ということを特に感じました。治療方法こそ違いますが、病気とはいつの時代も「死の恐怖」との闘いなのだということが、ひしひしと伝わってきました。

酒井 おっしゃる通り、現代は医療機器や技術が発達し、治療方法も膨大にありますが、人間の「病気が怖い」という気持ちは決して無くなりません。そして、その怖さを鎮めるために「神仏に祈る」という行為も、昔から変っていないのです。

昔は、病気になると祈祷という儀式を行なっていましたが、今でも私達は病気の回復を神仏に祈り、初詣に行ってはその年の健康を願いますよね? どんなに医学が進歩しても、病気に対する「恐れ」と「祈り」の方程式は、変らないのです。

──しかし、昔は病気の原因を解明する術もないわけですから、死への不安と同時に、なぜ病気になったのかという不安もあったでしょうね。

「為朝の武威痘鬼神を退く図」(1800年代芳年画)。鎮西八郎為朝が痘瘡鬼神を退治している絵。昔は、英雄の武威を借りて痘瘡(天然痘)を軽くするというまじないがあった。『錦絵 医学民俗志』より
「為朝の武威痘鬼神を退く図」(1800年代芳年画)。鎮西八郎為朝が痘瘡鬼神を退治している絵。昔は、英雄の武威を借りて痘瘡(天然痘)を軽くするというまじないがあった。『錦絵 医学民俗志』より

酒井 例えば疫病についていうと、古代では、疫病が広がるのは天皇の失政に対する神々の怒りの現れだと考えられていました。そこで、疫病が蔓延すると、東大寺などの大きな寺に僧侶を集めて読経させたり、全国の神社で一斉にお払いをさせるなど、国を挙げての大々的な祈祷が行なわれました。

──例えば、聖武天皇やその妻の光明皇后が各地に国分寺を建立させたりしたのも、その一環ですね。

酒井 そうです。神の力によって、当時大流行していた天然痘や飢饉から国民を救おうとしました。

──では、疫病以外の病気になった時は、何が原因だと?

酒井 怨霊です。人の怨念が「物の怪」になって人を襲うのだと信じられていました。例えば、平清盛はマラリアで死んだのですが、原因は清盛の独裁政治に反感を持つ者の怨念だと…。

──え? 日本にもマラリアがあったのですか?

酒井 当時のマラリアが現代のマラリアと同じものかは分りませんが、ひどい熱発作と頭痛があったという症状から見て間違いないでしょう。清盛に限らず、他にも同じような事例があったと文献等にも記されています。今でこそマラリアは熱帯地域特有の病気だと考えられていますが、昔は日本でも土着病として、恐れられていました。

──どうして日本から消えたのですか?

酒井 はっきりとは分っていませんが、マラリアのような土着病は、天候や生活環境の変化とともに症状が軽くなったり、突然消えるということがあるのです。

──人間の進化や環境の変化に伴い、病気そのものも変化するのですね。

「平清盛火焼病(ひのやまい)之図」(1800年代、芳年画)。1181年、マラリアで死亡したとされる平清盛。絵は、高熱で苦しむ清盛を囲み、加持祈祷を行なっているところ。『錦絵 医学民俗志』より


『解体新書』がもたらした医学の近代化

──近代以前は、医療より祈祷が信頼されていたようですが、時代とともに医学も少しずつ進歩していったようですね。

酒井 病気が政治や怨霊のせいだと考えられたのは、平安時代までです。戦国時代になると天皇の支配力が弱まり、疫病が広まっても別の原因があると考えられるようになりましたし、外国との交流が盛んになって、海外から病気が入ってくることも分ってきました。そして、江戸時代になると、蘭学とともに西洋医学が日本にやってきたのです。

「虎列刺(コレラ)退治(虎列刺の奇薬)」(1886年、木村竹堂画)。1877年にコレラが大流行した時の様子を描いた絵。虎頭、狼身、狸の睾丸をそなえ、石炭酸を掛けてもたじろかない怪獣をコレラの病原菌に例えている。『錦絵 医学民俗志』より
「虎列刺(コレラ)退治(虎列刺の奇薬)」(1886年、木村竹堂画)。1877年にコレラが大流行した時の様子を描いた絵。虎頭、狼身、狸の睾丸をそなえ、石炭酸を掛けてもたじろかない怪獣をコレラの病原菌にたとえている。『錦絵 医学民俗志』より

──近代医学の幕開けですね。

酒井 ええ。これには、杉田玄白や前野良沢といった医学者らの功績によるところも、大きいと思います。

──そういえば、先生は玄白らがオランダ語の解剖書を日本語に訳した『解体新書』を、さらに現代語に訳していらっしゃいますね。

酒井 はい。蘭学興隆のきっかけとなり、医学界に近代化をもたらしたこの本を、「名前は知っていても読んだことがない」という人が多かったものですから…。実は、原典と照らし合せてみると誤訳がとても多いのですが(笑)、それでもその当時の人の知識でちゃんと分る本になっている。原典から独立した1つの本として完成されている、素晴しい作品です。

──それにしても、当時は辞書もない時代ですから、大変な作業だったでしょうね。

酒井 日本語にない言葉が次々と出てきますから、それを一つひとつ造語しながらの翻訳です。例えば、「神経」や「軟骨」といった単語も、玄白らが苦心の末に作った言葉なんですよ。

──そうだったんですか。玄白達の様な素晴らしい先達がいて、日本の医学は世界でも最先端の技術を持つまでになったわけですね。

しかし、その一方で、病気に対する「恐れ」は昔とそれほど変らないような…。

酒井 そうです。そのことを、現代の医者も忘れてはいけないと思います。患者の気持ちと医療の原点は、変ることはありません。医者は、技術だけを磨くのではなく、医者としての考え方や患者への接し方など精神的な部分も、医史学を通して学んで欲しいと思っています。

──確かに、それは本当に大切なことですね。


医史学の魅力に取り付かれ、解剖学から転向

──ところで、そもそも先生が医史学のご研究を始められたきっかけは何だったのですか? こういっては何ですが、先生が学生でいらした頃は、女性で医学を志す方は珍しかったのでは…?

酒井 そうですね。私が医学部の学生だった頃は、40人のクラスで女性は4人だけでした。

──もともとはお医者さんになろうと?

酒井 ええ。母方の親戚に医者が多かったので、医者になじみがあったということと、たまたま実家から通える大学に医学部があったので、じゃあ医者になろうかな、と(笑)。三重で大学を出た後上京して、東大の大学院で解剖学を学びました。

──解剖学ですか?

酒井 人間の体について、もう一度基礎からきちんと学びたいと思ったんです。

──それがどうして医史学に?

酒井 解剖学では「脳の解剖」を専攻していたのですが、脳の中はミクロの世界。どんどん小さいところへ入り込んで、周りが見えなくなってしまったんです。新しく自分で何かを開発するという仕事でもなく、一種のむなしさも感じていました。そんな時に、後に順天堂大学医史学研究室の初代教授になられる小川鼎三先生に巡り合って、「医学の歴史は面白いよ」と勧められたんです。脳の世界と違って、歴史は知れば知るほどフィールドが広がっていきますし、過去を知ることで現在・未来が見えます。最初は、数年したら解剖学に戻ろうと思っていたのですが、そういう魅力にとりつかれてしまって、この世界にどっぷりはまってしまったというわけです(笑)。

──それで医史学研究室の2代目教授になられたのですね。この医史学研究室は、日本の医科大学では順天堂大学だけにしかないと伺いましたが…。

酒井 日本で一番古い私立病院だということで開設されたのですが、そもそもは、その生い立ちにも理由があると思います。

──とおっしゃいますと?

酒井 順天堂大学は、もともと千葉県佐倉にあった蘭学塾が始まりで、基礎を固めたのは佐藤尚中という人です。彼は、政府の意向を受け全国から300名の学生を集めて西洋医学の普及指導を行なっていたのですが、ある時、政府が連れてきたドイツ人医師が「尚中のやり方はナンセンスだ!」といって、授業をやめさせてしまったんです。

──彼はどういう指導をしていたのですか?

酒井 まず、学生を一同に集めて、ドイツ語の本を読ませました。ゼロからのスタートですから、本を読むことも大事なことです。

──しかし、ドイツ人から見ると、相当遅れていたのですね。

酒井 それでそのドイツ人医師は、300人の中から50人を選んで新しい学校を始めてしまったんです。

──では、残された250名の学生は?

酒井 尚中が引き取ったんです。借金をして新しい医学校と病院を作り、学生に医学を教え、患者の治療を行ないました。

──その精神が、医史学研究室につながり、今の順天堂に生きているのですね。

酒井 順天堂の語り部として、この精神を生徒に受け継いでいくのも、私の務めだと思っています(笑)。

──実は、私も以前こちらの医院にお世話になったことがあるのですが、お医者さんを始め、スタッフの方の対応が素晴らしかったのに感動した経験があります。その裏には、先生の存在があったのですね! 

酒井 そういっていただけると、うれしいです(笑)。

──今後の研究のテーマは?

酒井 テーマは無限にあります。医史学を地球に例えると、日本列島の九州ぐらいの範囲しかまだ分っていませんから。まだまだ学ばなくてはいけないことだらけです。

──今後も、医学を志す学生達のために、そしてまた、巡り巡っては私達、患者やその家族のためにも、頑張っていただきたいと思います。

本日はありがとうございました。


近著紹介
『病が語る日本史』(講談社)

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