こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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かつて、日本の喪服は白かった。 喪服の変遷から日本人の死生観を探る。

勘違いが生んだ「黒い喪服」

服飾史学者 学習院女子大学国際文化交流学部教授

増田 美子 氏

ますだ よしこ

増田 美子

ますだ よしこ 1944年生れ、岡山県出身。66年、お茶の水女子大学家政学部被服学科服飾史・服飾美学コース卒業、68年、同大学大学院修士課程修了。87年、学習院女子短期大学教授、98年より現職。著書に『古代服飾の研究──縄文から奈良時代──』(95年、源流社)、『日本喪服史 古代篇──葬送儀礼と装い──』(2002年、同社)、共著に『服飾表現の位相』(92年、昭和堂)、『生活紀行』(97年、学習院教養新書)など。

2002年8月号掲載


壁画からよむ、古代ニッポン

──私は時代劇や歴史ドラマが好きでよく見るのですが、当時の人々の服装をどうやって再現するのか、いつも不思議に思って見ています。写真や現物が残っている時代ならまだしも、何世紀も前のこととなるとほとんど手がかりがなさそうに思えるのですが…。先生は、服飾史のご研究をされている数少ない専門家の1人でいらっしゃいますが、服飾史の研究とはどういう手法でされるものなんですか?

増田 文献、遺品、壁画・絵巻物といった絵画類など、手がかりはいろいろあります。私は古代が専門なので文献や遺品が中心ですが、何といっても一番参考になるのは壁画ですね。

──そういえば、先生は高松塚古墳壁画の製作年代決定に関する論文を書かれていらっしゃいますね。

増田 はい。壁画に描かれている人物の服装から製作時期を割り出してみたところ、日本が中国の服飾文化を取り入れるようになった後のおよそ20年間に絞ることができました。

──なぜ、そんなことが分るのですか?

増田 日本は、7世紀初頭の遣隋使派遣頃から中国と交流し始めますが、服飾が唐風化し始めるのは7世紀後期の天武朝からです。あの壁画の服装は、中国式を取り入れつつもまだ完全ではないからです。

 奈良県高松塚古墳壁画西壁女子群像。国(文部科学省)所属。明日香村教育委員会。撮影:便利堂
奈良県高松塚古墳壁画西壁女子群像。
国(文部科学省)所属。
明日香村教育委員会。撮影:便利堂

──例えば、どんなところが?

増田 1つは襟の合せ方です。日本はもともと左袵(おくみ)だったのを、719年に中国に倣って右袵(おくみ)に変えるのですが、この壁画ではまだ左袵(おくみ)のままです。また、上衣の裾が下衣の中に入っていないのも、旧来の着方です。しかし、上着の裾に襴(らん)<横布>が付いていたり、袖が長いのは、明らかに唐の影響です。

──日本式と中国式が混ざり合っているのですね。

増田 そうです。これらを文献と照らし合せて考えると、恐らく684年から703年頃の間に描かれたものだと推測できます。

──なるほど。ちなみに、中国文化を取り入れる前は、日本はどこの国の影響も受けていなかったのですか?

増田 私は朝鮮半島の高句麗系文化の影響を受けていたのではないかと思っています。朝鮮半島で発見された高句麗時代の壁画には、高松塚古墳壁画とそっくりなものがあるんですよ。

──古代日本と朝鮮半島には、私達が考えている以上に深い関わりがあったのかも知れませんね。


「表示」から芸術へ表情豊かな人物埴輪

──先生は「埴輪展」などで講演をされるなど、人物埴輪のご研究でも活躍されていらっしゃいますが、そもそも人物埴輪はどういう目的で作られ、何に使われていたのですか?

増田 それにはさまざまな説があります。殉死の代用としたとする説や、殯(もがり)の儀礼<死者の魂を安らげるための儀式>を表現したという説など…。ただ、いずれにしても何らかのものを表示する意図で作られるようになったのは確かです。襷(たすき)をかけていたり、器を捧げ持っていたり、合掌していたりと儀礼的なものが多いです。

──以前、どこかの博物館で「踊っている埴輪」を見たことがありますが。

増田 それは後期の頃のものでしょうね。時が経つにつれ、儀礼的なものから「飾り」や「芸術」としての意味合いが強くなっていったようで、さまざまな形の埴輪が作られるようになりました。踊っていたり、子守をしていたり、相撲をとっていたりと、しぐさも表情も本当に豊かなんですよ。

──服飾史を研究する上でも、貴重な資料ですね。

増田 当時の人々の服装や生活がそのまま表現されていますから、これほど良い資料はないというくらいです。特に関東で見付かった人物埴輪は数も多く、バラエティに富んでいるので、非常に参考になります。

──地域によって特色があるのですか?

増田 もともと人物埴輪は5世紀に畿内で作られるようになりましたが、そこで繁栄・衰退していく一方で関東にも伝搬し、関東では6世紀頃最盛期を迎えました。

ですから畿内では初期、関東では後期のものが多いのです。しかし畿内はその後、土地開発が盛んに行なわれたということもあり、土中に埋まっていた埴輪が壊されたり、どこかへ行ってしまった可能性が高く、あまり数が残っていません。一方、関東は田舎だったこともあり、土地開発の影響をさほど受けず、無事発見される数が多いのでしょう。


勘違いが生んだ「黒い喪服」

──先生は文献と遺品を照らし合せて研究をされるとのことですが、文献の方でも何か面白い発見があったそうですね。

増田 喪服の色の話ですね?

──ええ。日本の喪服はもともと白で、それが黒、白、黒と変っていったと…。

増田 そうなんです。古代の喪服が白かったということは『日本書紀』や『隋書倭国伝』などで知っていたのですが、平安時代になるとなぜか黒に変ってしまうのです。どうしてだろうと思って調べ始めたら、いろいろと面白い理由があったんですよ。

──では、最初に白から黒へ変化したのはどんな理由だったのですか?

増田 718年に養老喪葬令が出されて、「天皇は直系二親等以上の喪には『錫紵(しゃくじょ)』を着る」と定められたのがきっかけです。当時の注釈書によると、「錫紵」とは「いわゆる墨染めの色」のことです。これは中国の『唐書』に「皇帝が喪服として『錫衰(しゃくさい)』を着る」と書いてあり、この中国の制を真似して定めたものと考えられるものです。ところが、実はここで大きな勘違いを犯してしまったんです。

──といいますと?

増田 唐でいう「錫」とは、灰汁処理した目の細かい麻布のことで、それは白い布のことなのですが、どういうわけか日本人はこれを金属のスズと解釈し、スズ色、つまり薄墨に染めてしまったというわけなんです。

──本当ですか? それまた大きなミスですね。

増田 間抜けな話ですが、その当時に書かれた文書にはっきりと書いてあるのですから、間違いありませんよ。

──それでは文句はいえませんね(笑)。

増田 はい(笑)。

この「錫紵」の色は、平安時代になると貴族階級にも広まって、薄墨だった色合いも次第に濃くなっていきます。これはより黒い方が深い悲しみを表現すると考えられたからで、あの『源氏物語』でも、妻を亡くした光源氏が「自分が先に死んでいたら妻はもっと濃い色を着るのに、自分は妻の喪だから薄い色しか着られない」と嘆く場面があります。

──黒を着てはいけなかったのですか?

増田 養老喪葬令の時、喪に重い軽いが定められ、平安になるとこれによって着る色が決められましたからね。

その後平安後期になると、一般的に黒が着られるようになりました。

──ところがその後、白が復活し、そしてまた黒に変ったんですよね?

増田 そうなんです。白が復活したのは室町時代で、途中江戸時代に水色が登場したりしますが、基本的には白が続きます。そして、明治維新を機にヨーロッパの喪服を取り入れて黒になり、現代に至っています。

──室町時代に白が復活した理由は、何だったんですか?

増田 まだはっきりとは分っていませんが、私が思うには養老喪葬令以降、喪服を黒くしたのは上流階級だけで、庶民は一貫して白のままだったのではないかということです。

といいますのは、白い布を黒く染めるには染料もいりますし、手間もかかります。昔は人の死を「穢れ(けがれ)」と考えていて、一度着用した喪服を処分していたようですが、そんな手間をかけたものを庶民が簡単に捨てたとは考えにくい。

それに、先祖代々受け継いできた伝統を変えるには、相当勇気がいるはずです。現代よりもはるかに信心深い時代ですから、伝統を変えることによってたたりや災いが起こるのではないかという"恐れ"が相当強かったと思います。

──確かに、食事の作法ならともかく、お葬式の形式を変えるのは抵抗がありますね。

『絹本著色聖徳太子絵伝』(長野県飯田市美術博物館所蔵、鎌倉末−南北朝)の一部。用明天皇の葬送場面。黒や白の葬列装束が描かれている(赤外線照射撮影による)
『絹本著色聖徳太子絵伝』(長野県飯田市美術博物館所蔵、鎌倉末−南北朝)の一部。用明天皇の葬送場面。黒や白の葬列装束が描かれている(赤外線照射撮影による)

増田 実は、養老の喪葬令で喪服が黒とされて以来、室町以降も宮中ではずっと黒のままだったんです。格式や形式を重んじる宮中では、一度決めた決まりを頑なに守り続けました。それと同じように、庶民は貴族の「黒」におされながらも、「白」という色を守り続けていたのではないでしょうか。そして、貴族の影響力が薄れた室町時代に、その"白文化"が盛り返したのではないかと考えています。

──上流階級は「決まり事だから」という理由で黒を、庶民は形式を変えることへの恐れや経済的理由などから、白という色を代々受け継いでいたわけですね。

増田 そうです。先程も申しました通り、「死」に関する儀式や死生観というものは、そう簡単には変らないと私は思います。前述の殯(もがり)の儀礼のように、お酒を飲んで踊ったり、あるいは泣き続けたりするしきたりが古代にもありましたが、この伝統は現代のお通夜に見られます。泣いている人もいれば、その傍らでお酒を飲んで騒がしくしている人もいる…。このように私達は、古代の風習を当り前のように受け継いでいるのです。


「△」マークの謎を解く

──ところで、次の研究のテーマは?

増田 亡くなった人の額に付ける△の白い布がありますよね? 「額被り」「紙被り」といわれていますが、あの起源をぜひ解き明かしたいと思っています。

──絵に描かれた幽霊が必ず付けているというほどポピュラーなものですが、そういわれてみると、何のためのものか分りません。

増田 実は、あれも随分前からある風習で、鎌倉時代の『北野天神縁起絵巻』にも描かれていますが、喪主や棺を担ぐ人も付けていたようです。

△ マーク柄の天冠を被る人物埴輪(埴輪男子胡坐像 附 埴輪女子像・埴輪跪坐像残閣、福島県所有)。『女性埴輪その装いとしぐさ』(埼玉県立博物館)より
△ マーク柄の天冠を被る人物埴輪
(埴輪男子胡坐像 附 埴輪女子像・埴輪跪坐像残閣、福島県所有)。
『女性埴輪その装いとしぐさ』(埼玉県立博物館)より

ところがなんとこの△マーク、古墳時代の埴輪や壁画にもたくさん描かれているんですよ。なぜか古代からずっと歴史上に登場しているマークなんです。

──先生は、それが額被りと関係があるとお考えなのですね?

増田 そうなんです! 額被りの由来はまだはっきりしていませんが、△マークの持つ意味が分ればその起源も分るのではないかと思って、今、研究を進めているところです。必ずどこかで結び付く──そんな予感がするんですよ。

──それを発見された時の先生の喜ぶお顔が目に浮かぶようです(笑)。

増田 今後はこの△マークを中心に、喪服史の研究を続けていこうと思います。喪服の研究を通して、日本人の死生観が見えてくるのではないかとも期待しています。

──喪服史の研究をされている方はほとんどいらっしゃらないとのこと。先生には今後もますますご活躍していただきたいと思います。本日はありがとうございました。



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