こだわりアカデミー

こだわりアカデミー

本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
MENU閉じる

昆虫の脳は、神経細胞わずか100万個の「微小脳」。 しかし、驚異的な学習・記憶力があるんです。

驚異的な学習・記憶力がある昆虫の脳に迫る

東北大学大学院准教授

水波 誠 氏

みずなみ まこと

水波 誠

1957年福岡県生れ。80年九州大学理学部卒業、82年同大大学院理学研究科修士課程修了。84年九州大学理学部助手、93年北海道大学電子科学研究所助教授を経て、2001年より現職。小型・軽量の体での生活に適合した情報処理システムである昆虫の脳を「微小脳」という概念で捉えることを提唱。昆虫の高度な行動につながる脳機構に着目し、その設計原理の解明と、ヒトを含めた脊椎動物の脳にも適用できる「脳の共通原理」の発見や、「脳の多様性と進化」の解明をめざしている。著書(ともに共著)に『もうひとつの脳』(培風館)、『行動生物学』(朝倉書店)、『脳から心へ』(岩波書店)、『昆虫の脳を探る』など、多数。
※なお、水波先生は09年4月に北海道大学教授に就任されました

2009年3月号掲載


小型・軽量・低コスト、情報処理装置の傑作


──先生のご著書『昆虫—驚異の微小脳』(中公新書)を拝読しました。


書店でたまたまこの本のタイトルが目に入り、「微小脳」という文字に惹かれてすぐさま購入したんです。多少難しいところもありましたが、昆虫が高度な学習や記憶をしているという、大変驚きのある内容でした。


本日は昆虫の微小脳の役割や働きについて、いろいろ教えていただきたいと思います。そもそもこの微小脳という言葉、先生が命名されたとか。すばらしいネーミングですね。

 

『昆虫ー驚異の微小脳』(中公新書)
『昆虫ー驚異の微小脳』(中公新書)

 


水波 ありがとうございます。


昆虫の行動は、一見単純に見えますので、昆虫の頭部にある、視覚や嗅覚、記憶などを担う神経細胞が集合した部分を本当に脳と呼んでいいのか、つまり私達人間などの哺乳類の大きな脳と比較できるような機能を持つのか、疑問視する研究者もいました。


しかし、この脳には、行動の準備や企画などに関わる巧妙な仕組みがぎっしりとつまっていることが分ってきました。昆虫の脳の働きには、哺乳類の脳の働きと驚くほど似ている点があるのです。


そこで、私は、哺乳類の大きな脳と対比して、昆虫の小さな脳を微小脳という概念でとらえることを提唱したのです。


──人間は「巨大脳」、昆虫は「微小脳」と。


水波 はい。昆虫の行動を実現しているのは、1立方ミリメートルにも満たない脳ですが、小さな体での生活に適した小型・軽量・低コストの情報処理装置の傑作ではないでしょうか。


私は、その小さな脳の中でも特に、『キノコ体』という部位が、感覚の統合や記憶形成・貯蔵、運動の企画・準備を行なっているのではないかと考え、さまざまな実験を通じて、昆虫の脳の仕組みを解明したいと考えているんですよ。


私がこの微小脳という概念を定義してから、まだ10年も経ってはいませんが、最近ではこうした考えを受け入れてくれる研究者も大分増えてきました。


──『昆虫に脳がある』ということは、大変な驚きでした。微小脳は今までとはまったく異なる新しい概念ですよね。これまでてっきり昆虫の行動は、神経そのものの「反射」や「本能行動」だと思っていましたので。

昆虫の神経系を表わしたもの。「脳」と記されている部分は、「頭部神経節」と呼ばれることもあったが、水波氏は哺乳類の脳と比較しうるような役割を果たすと考えている〈出典:水波 誠氏『昆虫−驚異の微小脳』(佐藤真彦氏の原図を改変)〉

 

ゴキブリには景色を記憶する能力が


──そもそも、昆虫の行動を脳が司っているのではないかと着目したきっかけは?

 


 


水波 もともと私は昆虫が好きでこの道に入ったのですが、昆虫が生きていくうえで重要な感覚である視覚について、学生時代からかれこれ10年間程、研究していました。動物にとっての視覚とは、捕食者やエサ、交尾の相手を発見するための重要な感覚ですからね。


そして、研究を重ねているうちに、「外部から入った刺激が、どうして視覚だと認識できるのか、また、視覚として得た情報がどのように信号化され、運動や行動となるのか」という、設計原理、動作原理がどうしても気に掛かるようになったのです。


──つまり、「高度な情報処理をする『脳』が存在するのでは」と?


水波 その通りです。


ちょうどその頃、インドで開催されたある学会で、アリゾナ大学のニック・J・ストラスフェルド教授に出会ったのです。


ストラスフェルド教授は昆虫の神経解剖学の第一人者で、ビジュアル的にも美しい著書『Atlas of an insect Brain』(昆虫脳のアトラス)で有名です。彼は、ハエの脳について、解剖学のみならず電気生理学的見地からも検証を重ね、行動のメカニズムについて探っていました。


そこで互いに研究テーマや今後の研究課題などを話し合ったところ意気投合し、一緒に研究しようということになって、私はアメリカに渡ったのです。

──お二人でどのようなご研究を?


水波 昆虫が場所を記憶するのに、脳のどの領域が関わっているのか、ワモンゴキブリを使って実験を重ねました。


具体的にはワモンゴキブリの脳のさまざまな領域を手術で破壊し、脳のどの領域が破壊されると場所の記憶に障害が起こるかを調べたのです。


その結果、ワモンゴキブリには、景色を記憶する能力があり、その記憶をもとに行動をしていること、また、場所記憶には脳の前中央部にある対になったキノコ体が関与していることが明らかになりました。

 

■ゴキブリの場所(景色)学習実験装置

ゴキブリの場所(景色)学習実験装置
ゴキブリの場所(景色)学習実験装置
水波氏がストラスフェルド教授のもとで、場所(景色)の記憶に昆虫の脳のどの領域が関与しているか、定住性の高い、ワモンゴキブリを用いて行なった実験。
床を50℃に加温した円形の広場の一部に、常温の床(ゴール)を設け、広場のまわりの壁には視覚的なパターンを配した。ゴキブリを広場に入れると、高温から逃れようとして壁のまわりを走りまわるが、偶然、常温のゴールに入ると、以後、ゴールにとどまる。
この試行を5分間隔で数回繰り返すと、ゴキブリは次第に短い時間でゴールに到達できるようになった。
Aの実験では、縦縞の前にゴールを置き、Bでは縦縞と黒の模様の間にゴールを置いた。どちらの場合もゴキブリは次第に短い時間でゴールに到達するようになった。 
しかし、壁の模様とゴールの位置関係を変えると、ゴキブリがゴールに到達する時間が長くなった。
さらにCのようにオレンジとバナナの匂いを壁に塗ったところ、壁の匂いをゴール到達のための手掛かりとして用いることもできた。
一方、壁に何の手掛かりもないと、試行を10回行なっても、ゴール到達時間は減少しなかった。
なお、実験中、フェロモンなどの匂いの手がかりを残せないよう、床は頻繁に交換、もしくは回転させた〈出典:水波 誠氏『昆虫−驚異の微小脳』〉

 

匂いで食べ物の姿を連想するゴキブリ


──つまりキノコ体は、人間にとっての大脳皮質のようなものなのでしょうか。大脳皮質は人間の知覚や思考、記憶などを司るとされている部位ですよね?


水波 ええ、そのような役割があるのではないかと推測しています。


──ほかにはどのような実験を?

 



水波 私が日本に帰ってきてから行なった実験ですが、キノコ体は匂いの学習にも関与していることが分りました。


「パブロフの犬」のように、ゴキブリに匂いと砂糖水の古典的条件付けをすると、ゴキブリは匂いを学習するのですが、学習したゴキブリをいろいろ調べてみたところ、どうやら、匂いをかいだゴキブリはキノコ体に信号を送って「食べ物の姿」を思い出しているようなのです。

 

 

■キノコ体破壊手術の場所記憶への影響を調べた実験

キノコ体破壊手術

上の実験でゴキブリはゴールの周囲の景色を記憶する能力のあることが分ったので、脳の破壊手術により、脳のどの領域が場所記憶に関与しているかを調べたもの。上図キノコ体の赤い部位を、手術により破壊した。
脳の破壊によって学習に障害があっても、脳の破壊により運動障害や視覚障害などを引き起こしたとも考えられるため、対照実験を導入した。対照実験では、黒い床のゴールに目印として白い紙を置き、直接それを見ながらゴールに到達することを学習させた。ゴールが見える対照実験で、脳手術をしたゴキブリと正常なゴキブリが同じ早さでゴールに到達できた場合には、ゴール到達に必要な視覚や運動機能は正常であるとみなした。また、脳手術をしたゴキブリが、ゴールの見えない実験で、正常なゴキブリよりもゴール到達に長い時間が掛かった場合、そのゴキブリは場所の記憶に障害があると判断した。
微小なアルミニウムの薄片を脳の目標とする場所に慢性的に埋め込み、学習実験終了後、脳の組織切片を作り、どの領域の神経繊維がアルミ片により切断されているかを顕微鏡観察によって確認した。
その結果、左右両方のキノコ体を完全に切断すると、場所記憶に障害が起こることが分った。〈出典:水波 誠氏『昆虫−驚異の微小脳』〉


──食べ物の匂いをかぐと、思わずその食べ物を連想するというのは人間と同じですね。


水波 そうなんです。


昆虫の脳の神経細胞は100万個、人間は1000億個と、ニューロンの数には大きな違いがあるものの、原理は驚く程似ているんです。

 

昆虫の脳の設計から人間の脳の原理を解明へ


──現在、人間の記憶や感情、行動などを解明すべく、脳科学が脚光を浴びていますが、昆虫と人間の脳の原理が似ているとすると、昆虫の脳が分れば、人間の脳を解明する突破口になるかもしれないですね。


水波 ええ。われわれの目指すゴールはそこなんです。


昆虫の脳の設計図が明らかにできれば、共通する原理を持つ人間の脳を理解する助けになります。


まだ、分らない部分も多々あり、研究者も決して多くはありませんが、分析方法を工夫しながら、何とかその原理を探りたいと奮闘している次第です。

対談する二人


──先生の今後のご活躍、大変期待しております。先程、先生の研究室でお会いしたコオロギやゴキブリにもよろしくお伝えください(笑)。


本日はどうもありがとうございました。


近著紹介
『昆虫―驚異の微小脳』
近況報告

2009年4月より北海道大学教授に就任


サイト内検索

  

不動産総合情報サイト「アットホーム」 『明日への扉〜あすとび〜』アットホームオリジナル 動画コンテンツ