こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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ローマ人はこと「食」に関しては ものすごいエネルギーを注いだんです。

ローマ人の食卓−庶民から皇帝まで

ギリシア・ローマ史研究者 和光大学講師

塚田 孝雄 氏

つかだ たかお

塚田 孝雄

1934年横浜市生れ。58年東京大学法学部卒業後、澁澤倉庫に入社。84年澁澤資料館主任研究員を経て財務・総務本部部長補。現在は同社100年史編集委員会委員を務める。その傍ら89年和光大学講師(ギリシア・ローマ風俗史担当)となる。同社に勤めながらギリシア語、ラテン語を独学で勉強するうちに「食」についての研究をするようになる。大学での講義は100人入る教室が満杯になるほどの人気。著書に『シーザーの晩餐』(91年、時事通信社のち朝日文庫より再販)、『食悦奇譯』(95年、時事通信社)、訳書に『パンドラの箱 神話の一象徴の変貌』(75年、美術出版社)、『ペンタメローネ』(94年、竜渓書舎、いづれも共訳)がある。

1997年5月号掲載


庶民の住まいは狭い高層アパートでパンは配給

──先生の著書『シーザーの晩餐』を読ませていただいてちょっと驚いたんですが、1、2世紀のローマでは港区位(21平方キロメートル)のところに120万人もの人が住み、しかもアパートが高層住宅だったそうですね。

塚田 もともと計画性もなかったため、街自体が曲がりくねって非常に狭い。そんなところにみんな集まってきたため住む場所がなくなってしまった、となると高層化するしかないわけでしょう。とにかくレンガを積み重ねていくだけのものですから、ちょっと怖いですよね。それに部屋がとても狭いんです。お手洗いもないし台所も十分でない。

──そうまでしなければならないほど過密状態だったんですから、2000年前といってもゴミ処理やら大変なことだったんでしょうね。

塚田 そうなんです。ですから、まず、炊事その他はできるだけ簡略にさせたんです。例えばパンはタダで配給されました。ローマ市民であること、ちゃんと家賃を払っていることなどの条件さえそろっていれば、大家さんが、こういう人間がいて収入が少なく非常に貧乏していると国に届ける。すると木でつくった「テッセラ」という札をくれるんです。その札をパン屋に持っていくと、現物と交換してくれるというわけです。

ただそのパンも日持ちがするようにつくってあって非常に堅いものだったらしい。ですから、安くて酸っぱいワインを買ってきて、それに浸して軟らかくしながら食べた。おかずは干魚や玉ネギに魚醤(魚から作った醤油のようなもの)の一番安いのをつける、といった具合です。

火を炊くことも原則として禁止なので、七輪のようなものでせいぜいお湯を沸かすくらいですね。

──それじゃまともな料理なんかはできないですね。

塚田 ほとんど無理ですね。男性は現金収入があった時は飲み屋というか食堂、いわゆるタベルナに行きます。

たまに年に何回かは雇い主から宴会に誘われたりしたようです。例えば今自分は歌の稽古をしているからお前ら必ず出席しろ、といったような。本当は聞きたくないけどおいしい料理は食べたいからいくわけです。

──女性は参加できなかったんですか。

塚田 そうなんです。初めのうちは表立ってお酒を飲めなかったんですが、だんだん女性の権力も強くなってきて、1世紀の後半あたりからそういった席に出るようになりました。

ただ女性が出かけるとなると身支度に時間がかかったみたいで、この点は今も昔も変わらないですね。


世界中から食材を集め、養殖もしていた

──さて、その宴会に出る料理ですが、一体どんなものが出たんですか。

塚田 とにかくローマ人は美食家です。こと「食」に関しては、ものすごいエネルギーを注いでいます。天然のものだけでは足りなくなり、養殖もしていました。例えばエスカルゴですが、東京ドームぐらいの広さの養殖場をつくっていました。そのエスカルゴも、より大きく太っているものを求めて、アフリカのモロッコより先の、当時としては前人未到の地みたいなところから採ってきたりしたようです。

それからローマ人はヤマネが大好物でやはりそれも養殖していた。これもまた大きな養殖場をつくり、そこで良さそうなやつをピックアップしてきて、今度は大きな瓶に入れるんです。そこでパンパンに太らせてから、甘いタレをつけてあぶって食べる。これが大変な珍味だったそうですが、ちょっとかわいそうな気がしますね。

──その時代、その国の人にとっては当り前でも、他の人から見れば「えっ!−」と思うような食べ物や食べ方がありますよね。日本にだって白魚の踊り食い、なんて食べ方もありますし…。

ほかにはどんなものを。

塚田 生の牡蛎も好んで食べていました。そのほか帆立など、貝類は季節を問わず生で食べていた。魚類はマグロ、タイ、ヒラメ、イカをボイルするか焼くかしてそれにソースをかけたものを食べていたようです。また野菜はキャベツの類やアンティチョークまで、世界中から集めていました。のちにはクジャクの舌やラクダのかかとを食べる皇帝も出ています。

──食材も豊かですし、特に魚の種類が非常に細分化されていたようですね。魚の呼び方がいかに細かいかでその国の食文化が分かる、といったことを聞いたことがあります。

塚田 マグロには成長の度合いに応じて名前を付けるなど、日本の出世魚のような考え方があったんです。しかも各部位ごとにも名前がちゃんとあるんです。


ローマ人はウナギの蒲焼きが大好物

──ウナギも食べていたとか。

塚田 ウナギはギリシア時代から食べられていまして、ローマ人も大好物だったようです。いろいろな調理法がありますが、大体は裂いて、それも腹からではなく、背開きにしてこれを炭で焼くわけです。そしてパピルスや鳥の羽のうちわを使って、パタパタとやっていた。ちゃんとタレのレシピもあるんですよ。

──いわゆる蒲焼きですね。タレはやはり甘みのある…。

塚田 魚醤にハチミツで甘みをつけ、ほかにコショウなどの香料を入れて、それを塗ってはあぶり、あぶっては塗りしていた。その匂いに誘われて、並んで買うんですが、我慢しきれなくて家まで持って帰らず、その場で食べてしまった、そんな様子を書いた書物が残っています。

──日本の蒲焼きは室町時代ぐらいですから、そう考えると2000年近く前のギリシアやローマで蒲焼きの調理法が既にできていたとは、かなり高度な食文化ですね。

塚田 ウナギはおいしくて栄養があるとギリシアやローマの人達も考えていたようですが、食べ過ぎによる体の害についての記述も残っているんです。ヒポクラテスによると「魚の頭や、ウナギの食べ過ぎによる肥満が人間の体にとって最大の敵である」そうで、脂肪を取り過ぎてコレステロールがたまることは昔も今も感心しなかった。

でもやはりおいしいから、夢中になって食べていたんですよ。もっとも、当時としてもやはりウナギは高かったようで、一般庶民の口にはなかなか入らなかったようですね。


桁外れのスケールで行なわれた皇帝たちの「饗宴」

──やはり、ある程度の階層の人間じゃないと食べられないのは、ちょっとかわいそうですね。

塚田 でも、こういった庶民もローマ市民なんだし、いざ戦争などという時にはローマを支える人達だから、たまにはご馳走しておこうという考えが、当時の将軍や皇帝にあったんです。

ジュリアス・シーザーもそうでした。

シーザーが地中海世界を統一して帰ってきた時、お金が有り余るほどありましたから、祝賀行事の一つとして2万2千席の饗宴を開いたんです。

当時の饗宴は横になって飲み食いします。1つのベッドのようなものに3人、それが3つに食卓が1つで1席です。ですから1席が9人、それが2万2千席ですから19万8千人が座ることができる。ただ、そのベッドに4人いたって構わないわけですし、入れ替わり立ち替わりやってきたことも考えると、当時の市民権を持った成年男子は32、3万人でしたから、反シーザー派を除けばほとんどの市民がご馳走にありつけた。

──想像できないほどの規模ですね。相当な量の食材だったんでしょう。

塚田 上等なワインに、ウナギじゃ小さいからウツボを養魚場をやっている貴族から6千匹借り入れたり、料理組合に交渉して料理人を借りきったりしました。さらにシーザーお抱えの料理人や食通の貴族達の料理人も動員して、秘伝のご馳走を公開させたりもしたようです。

──貴族の食べているものまで一般市民も食べられたんですから、食文化の平均レベルが上がりますよね。

塚田 そうですね。その後帝政時代になると今度は、人気取りの手段として市民にご馳走したようです。ある皇帝は競馬場を使いました。なんとこの当時から馬券があり、朝からレースが始まりお金を使い果たすのが夕方ごろ。その頃あいを見計らって皇帝が手を上げて合図すると、ラッパが鳴りお弁当とお酒が登場するんです。お弁当と言っても庶民にとってはかなり豪華で、肉あり、魚、野菜、果物もついています。お酒は、きれいな女性や美少年の奴隷が持ってきて、給仕してくれる。おまけに最後は宝くじの投げ込みもあったんです。木の札に家1件とか、ゾウ1頭、馬、ライオン、着物などいろいろ書いてありまして、拾った人間は帰り際に出口で引き換えるわけです。でも、着物などは持って帰ることができますけど、ゾウや家とかは大変でしょう。ですから、それ相当のお金がちゃんと用意されているんです。

──それだけやったら人気も取れますよね。「皇帝バンザイ」て言いたくもなるかな(笑)。

塚田 皇帝は絶大な権力を持っていますが「おれはみんなの中の親分というだけなんだ、たまたまこうして権力を握っているだけで本当はみんなと同じなんだ」ということを示したかったのでしょう。ずいぶん無駄なことをして人気を取るな、とも思いますがなかなか巧妙ですよね。

──でも、こういうみんなで一緒に楽しむというシステムが既にできていたから、他の国と比べてもローマが異様に早く食文化、その他の文化もそうなんでしょうが、レベルがぐっと上がったんでしょう。お話を伺っていると、人間の文化ができた時から、「食」というのは非常に大事な位置付けにあるんだなと思いました。

歴史の中での「食」に関しては、ともすれば見落としがちですけど、当時の世相や庶民の姿が一番見えるものなんですよね。これからもさまざまな国の「食」の歴史を先生の手で掘り起こしてください。

本日はありがとうございました。


近況報告

今年(1999年)3月31日付けで当時勤めていた澁澤倉庫(株)を退職。和光大学以外に跡見学園女子大学の講師などを勤めながら「第2の人生を楽しむつもりです」とのこと。 大学での講義内容は、ギリシア・ローマの風俗、文献学。比較文学。イタリア文学。


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