こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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江戸時代の隠密情報から 当時の世相や行政構造が見えてきます。

松平定信の隠密情報に見る江戸の役人社会

法学者 國學院大学法学部教授

水谷 三公 氏

みずたに みつひろ

水谷 三公

1944年三重県生れ。68年東京大学卒業後、同大学法学部助手を経て、71年東京都立大学法学部助教授、85年教授に。98年より現職。この間、74−76年に英国バーミンガム大学付置研究所、都市・地域圏研究センターCURSにて在外研究。著書に『英国貴族と近代』(88年、東京大学出版会)、『王室・貴族・大衆』(91年、中央公論社)、『江戸は夢か』(92年、筑摩書房)、『イギリス王室とメディア』(96年、筑摩書房)、『江戸の役人事情』(2000年、筑摩書房)など。

2001年1月号掲載


隠密情報『よしの冊子』は情報の宝庫

──ご著書『江戸の役人事情』を、大変興味深く読ませていただきました。本日は、本のテーマでもある、江戸時代の役人についてお話しいただきたいと思います。

まず詳しく伺う前に、本にはさまざまな当時の面白話や逸話、考えさせられる話が満載されていますが、それらのネタは『よしの冊子』という史料に描かれているそうですね。

当時の役人の職員録『文政武鑑』。これは西の丸(次期将軍や、大御所と呼ばれる将軍を退いた者が住むところ)のもの
当時の役人の職員録『文政武鑑』。これは西の丸(次期将軍や、大御所と呼ばれる将軍を退いた者が住むところ)のもの

水谷 『よしの冊子』は、寛政の改革を行なった人として有名な松平定信(別注参照)の手元に集められた、官界やそれらを取り巻く世間の内幕情報をまとめたものです。江戸後期の役人世界の本音や、役人の採用、昇進方法など、役所のルールはもとより、当時の世相を知るためにも有用な1冊です。

──私も実際に、中央公論社から出ている『随筆百花苑』の第8、9巻に収められている『よしの冊子』を見てみたんですが、冒頭に「他に出すべからず」とありました。それだけ大事な情報だったんですね。

水谷 定信の側近だった水野為長が隠密を使って集めさせた、まさに隠密情報です。彼が要旨をまとめてダイジェストにして、定信に渡していたようです。

──なぜ定信はそういった情報を集めたのですか?

水谷 定信は、それまで政権を握っていた田沼意次の失脚により、1787年に30歳という若さで老中(表参照)になり、その翌年には、幼い将軍(第11代家斉)の補佐として政務を執り仕切ることになりました。多くの場合、京都所司代や若年寄などの要職を経た人が老中になるのですが、彼は田沼時代に横行した賄賂が好きでなかったこともあり、それまで政府の要職に就いたことがなかった。それだけにクリーンな人であり、8代将軍吉宗の孫にも当ることから、老中のトップに担ぎ上げられたのです。しかし、裏を返すと、政府の内部事情をほとんど知らなかった…。

──なるほど、それでいろいろ情報を集めたかったんですね。

しかし、その情報には単なる噂で、事実無根の話も載っているとか…。

水谷 そうなんです。例えば、寛政元年(1789年)の夏の噂として、将軍家斉にお姫様が生れたのを祝って、178歳の男が137歳の妻とともに自分の白髪を献上した話が載っています。これはどう考えてもホラ話ですが、他にも真偽定かでない噂話がたくさんあるのです。

これは本の名前からもいえることで、『よしの冊子』の「よし」とは、漢字で書くと「由」、つまり「そのようだ」という意味。1820年前後に、ある人が、残っていた水野の文書を見付けた際に、一段落ごとに「よし」とあるのでこのような名を付けたのです。はなから確実な情報とはいえなかったことが伺えます。

──面白おかしい話もあるなど読み物としてはいいですが、史料としての解読は一筋縄ではいきそうにないですね。

水谷 これを読み取るには、他の書物とのすり合せ作業と長年の勘が必要で、門外漢の私には本当に大変でした。それもあって真っ向から取り上げる研究者は非常に少ないんです。しかし、ものは考えようで、噂というのは、その社会構造に則したものでもあり、読み方次第で役所の世界、役人の世界の特徴や構造をうかがい知ることもできるんです。私にとってこの本は宝の山、情報の宝庫ですね。

●松平定信とは?
八代将軍吉宗の孫。1783年(天明三年)26歳で白河藩主となり、財政を再建して天明の大飢饉(1782−1785)を乗り切る。
1787年(天明七年)、老中へと抜擢されると、天明の江戸打壊しを頂点とする深刻な幕政批判に対処すべく、改革を断行(寛政の改革)。歳出削減により財政を黒字とし、借金にあえぐ下級武士の生活を救うため、棄捐令を出した。また飢饉対策、無宿人対策にも力を注ぎ、社会不安を沈静化。文武奨励により武士の風儀の引締めを図った。
1793年(寛政五年)、在職6年で将軍家斉により老中を解任され、失脚。以後白河藩政に専念し、1829年72歳で死去。
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江戸時代の日本は、本当に近代化後進国だったのか?

──江戸時代というと、身分制度のはっきりした封建的な古い社会で、その中でも特に武士はその代名詞の如く、きちっとしていてお堅いイメージを持っていました。しかし、『よしの冊子』に出てくる人達はみんな非常に人間味があって生き生きとしていますね。それに、役人社会の構造は現代に通じるものを感じます。

江戸時代を通史的に捉えるのではなく、このように役人の世界という切り口で見ると、また新たな事柄が浮かび上がってくるように思いますが、先生はどういうきっかけでこの研究を始められたのですか?

水谷 実は、私はもともと行政学を学んでおりまして、イギリスの土地政策について研究していました。イギリスといえば、近代化の先進国として名高く、一方、日本は同じ頃、まだ刀を振り回していた江戸時代で、非常に後れた封建社会だといわれていました。しかし、実際にイギリスの研究をしていく中で、あんなに早くから近代化が進んだ国なのに、実はそれを支えていたのは、古くからの貴族社会であったことが分ったんです。かなり意外なことで、衝撃的でした。そして、「果たして江戸時代は本当に後れていたのか?」という疑問が湧いてきた。それを確かめるべく、行政という観点で日本史にも足を踏み入れるようになったんです。


役人の採用は家柄で決っていた

──そういう視点で江戸時代をご覧になって、感じられたことは何でしょう?

水谷 先ほどいいましたように、一般的に、江戸時代は後れている古い社会だという認識が持たれています。しかし、実際は違う面もあるんです。今の日本官界は、近代国家成立とされる明治維新でつくられたといわれますが、私は、基本のところはすでに江戸時代につくられていたと考えています。

例えば、受け継いでいるという点では、俗にいう「キャリア」と「ノンキャリア」があります。当時、幕府の役人になることができたのは「旗本」と「御家人」です。旗本というのはまさにキャリア組で、将来役所の幹部になりうる人、そして御家人はノンキャリアと呼ばれる実務を担当する中間管理職以下に対応していたといえます。

ただし、採用方法は試験をするのではなく、主に家柄、家格で決っていました。

──旗本となると、その処遇などは大きく変ってくるんでしょうね。

水谷 旗本は将軍に拝謁でき、御家人はできないなどの差があるように、身分で明確に処遇が分れていました。

しかし、キャリアである旗本といっても、彼らの就けるポストには限りがあって、だいたい五千家強あった旗本数に対し、3千強しか席がなかったんです。

──残りの4割近くの旗本は?

水谷 「禄ある浪人」として非職でした。それとは反対に、旗本の中でも限られた人しか上り詰めることのできない、「目付」という役職に始まるエリートコースがありました。それになれるのは、筋目が正しい上級旗本であることがほぼ条件で、その中から有能な人材や、家柄の良い者達が、「遠国奉行」、「町奉行」、「大目付」へと出世していくのです。

──目付はまさに当時のエリートコースの登竜門だったんですね。

水谷 そうです。目付は将軍に代って政府全般の活動や幕臣を監察し、不正を摘発して是正の指令を出す任務を負っています。時には政府首脳の参謀になることもあったほどで、政策決定に重要な役割を担っていました。

それと同様に政府を支えたのが勘定奉行所の役人達で、まさにエリート旗本の目付とは相反するノンキャリアを中心とした下級幕臣達の組織です。実は、勘定奉行所は下級幕臣でも奉行になることができる職種で、非常に人気がありました。いわば今の大蔵省(2001年1月6日より財務省)ですが、当時の勘定奉行所はずば抜けた規模と権能を誇り、単なる財務や税務に留まらず、政府活動の大半を集中管理していた重要な職務だったんです。

代官所(現在でいう税務署)の執務風景
代官所(現在でいう税務署)の執務風景

──それだけ権力があるのに、どうして家格の低い幕臣しかいなかったんですか?

水谷 武士の本業は戦(いくさ)であって、「銭、金、そろばんには触らない」ことが社会常識でした。町人のやることだと思っていた家柄の良いエリート達は、どんなに権力を握れるところでも、そのプライドがあって勘定奉行所にいきたがらない。必然的に、エリート達の触らないものを扱う勘定奉行所が、下級幕臣達のテリトリーになったんです。


視点を変えて歴史を見る!

水谷 実は、この目付系エリートと勘定奉行所系下級幕臣は、明治以降の官僚機構にも大きな影響を与えています。これはよく対比される組織の中の、「スタッフ」と「ライン」の関係と似ています。政策決定を下す最高首脳部に寄り添い、アイデアを練って情報を分析し、戦略をつくるのがスタッフで、ラインは決定された戦略に単に従うのではなく、実行可能でかつ効果のある高度な戦略を追求して実現に努力します。両者はしばしば対立、競合し、政府を支えてきたといっても過言ではありません。

──目付系エリートがスタッフで、勘定奉行所系下級幕臣がラインということですね。

水谷 まさに身分の棲み分けが、こういう機能の分業を生み出したといえますね。

しかし、「下級士族の反乱」とか「下級武士の革命」と呼ばれる明治維新によって生れた明治政府が、「四民平等」を唱え文明開化を進めるに伴ない、エリートであった目付系のスタッフ機能を軽視するようになりました。明治以降の官界は、勘定奉行型を中心に発展し、ライン機能である中間管理職に依存する体制ができたと思われます。

──なるほど。確かに今の社会は江戸時代の特性を、脈々と受け継いでいるんですね。

これからの先生のご研究のテーマは?

水谷 一つは、膨大な『よしの冊子』を現代語訳し、世に出すのが夢といえますかね。また、東京の浜松町に浜離宮がありますよね。あれは、江戸時代は将軍個人の庭でしたが、後に日本初の海軍所に変っていった。まさに平和な江戸が、幕末の混乱へと変化していったその象徴ともいえるんです。二つ目として、それを題材に「将軍の庭」について本を書きたいと思っています。

さらにスケールが大きいのですが、三つ目に、律令時代からの日本史をもう一度自分の目で見直し、改めて読み物としての歴史書を書きたいと思っています。今、中世の歴史まで勉強が進んでいます。

最後に、「島国の近代」と題して、イギリスと日本の近代の成り立ちを、比較研究したいと思っています。互いに、ヨーロッパ、東アジアの中でも存在感を示している国で、島国国家という似たような境遇でもあります。それを比較してみたいんです。

──体がいくつあっても足りそうにないですね(笑)。

水谷 確かに、早々に死ねませんね(笑)。

──先生のお話を伺って、歴史というのは、時代とともに捉え方も変っていくわけで、改めて見直すことも必要だと感じました。また、庭を視点に歴史を見るにしても、今回の役人を通して江戸の歴史を探訪するにしても、視点を変えるとまた別の歴史が見えてくる−−本当に歴史は興味の尽きないものです。これからももっと、私達の知らない歴史の世界を紐解いていってください。楽しみにしております。

本日はありがとうございました。


近著紹介
『江戸の役人事情』(筑摩書房)

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