こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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「肉食の禁止」により進んだ「米」の神聖化が 日本の特異な食文化をつくり出しました。

米と共に歩んだ日本の歴史

国士舘大学21世紀アジア学部教授

原田 信男 氏

はらだ のぶお

原田 信男

1949年栃木県生まれ。74年明治大学文学部卒業、83年同大学院博士後期課程単位取得満期退学。札幌大学女子短期大学部助教授。89年『江戸の料理史』(中公新書)でサントリー学芸賞受賞、95年『歴史のなかの米と肉』(平凡社)で小泉八雲賞受賞。98年「中世村落の景観と生活−関東平野東部を中心として」で明大史学博士。ウィーン大学客員教授、放送大学客員教授を経て、2002年から現職。著書に『江戸の食生活』(岩波現代文庫)、『コメを選んだ日本の歴史』(文春新書)、『和食と日本文化』(小学館)など多数。

2014年4月号掲載


「米」を軸に通史を見ると、断片的な物事がつながってくる

──先生のご著書『歴史のなかの米と肉』を拝読させていただきました。
私たちが学校で習った日本史は、政治や社会、文化、経済などがそれぞれ時代区分で表わされて、そのせいか、どうも断片的で事柄がうまくつながらないと感じていました。ところが、「米」を軸に通史を見るという先生のお考えはとても分かりやすく、バラバラだった断片がつながって見えたのです。とてもユニークな発想で、どうしてこんな風に学校で教えてくれなかったのかと思ったほどです(笑)。

原田 ありがとうございます。
学問としての日本史の時代区分は、古代、中世、近世、近代とされており、時代をまたがって研究することはとても難しいことなんです。ですから、どうしても断片的になってしまうのでしょうね。
大学での研究も、まずは時代を選び、その中でテーマを決めるのが普通でした。

関東平野東部の平坦な地域・茨城村落調査。水路をたどり水系を確認している〈写真提供:原田信男氏〉

──先生は何を研究のテーマに選ばれたのですか?

原田 中世の村落史でした。

──具体的にどういったことを?


原田 私の場合、関東平野東部の茨城村落を中心に、田んぼや畑、村はどこにできるのか、川の水系はどうなっているのか・・・など、20年通い続けて学位論文を仕上げました。その過程で食文化に興味を持つようになり、古代から日本人が関わってきた「米」を軸にすれば総合的に歴史が見られるのでは・・・、と考えるようになったのです。

──確かに、食料は歴史の背景における最も中心的なものですよね。そういえば、狩猟採集が主だった縄文時代においても稲作が行われていたと聞いたことがあります。

長野と新潟の境にある奥深い山村・秋山郷調査の様子。古くから焼畑などが営まれてきた〈写真提供:原田信男氏〉

 原田 おっしゃる通りです。すでに一部では、おそらく焼畑によって稲作が行われていたようです。稲作は主要な生業にはならなかったものの、縄文晩期に入ってからかなりのスピードで北九州から本州へと広まっていきました。そして弥生時代に、新しい水田技術を用いた米づくりが確立し、米を中心とした食文化が形成されたのです。

国家統率のために出された「肉食禁止令」

──東アジアでは、どの地域でも米食が一般的ですが、日本は特に米との関わりが深いですね。

原田 古代国家において、肉を食べることを禁じたことに起因していると思います。

──肉食を禁じた?

原田 はい。確かに、東アジアでは、必ずといっていいほど、米、それに魚とブタをセットにした食文化が紀元前から各地に広がっていました。日本でも弥生時代にはブタが飼育されていたのですが、古代国家最盛期の天武天皇4(675)年、肉食禁止令が出されたのです。

ラオスの稲作の主体は「焼畑」で、3月は火入れの季節。10種類以上の品種を植える〈写真提供:原田信男氏〉

──どういう理由なのですか?

原田 稲は非常に繊細な植物なので、その栽培にあたっては、さまざまなタブーがつくり出されます。その中で日本の為政者は、人々が肉を食べることが稲作の障害になると考えました。

──そこで、米づくりのために肉を禁じたと?


原田 そうです。ブタを伴わないという日本の米文化は、アジアの中ではかなり特異なものです。
当初は、稲作の期間だけ肉食が禁じられていましたが、やがて肉を「穢れ」と見なすようになり、米が聖なる食べ物として受け入れられていくことになります。とはいえ、米の生産力が厳しかった段階では、多くの人々にとって肉食は不可欠でした。貴族や都市住民の中には肉を好む人もいて、京都にはシシ肉を販売するルートさえ成立していたほどです。
そして、古代に始まった肉食の禁忌は水田の開発と生産力が増すにつれ、徐々に社会の下層にまで及んでいきます。近世においては、肉を食べると目が潰れるとか、口が曲がるという俗信まで生み出されました。

沖縄小禄公園に保存されているフール(ブタ便所)。ブタを食べる文化が続いていた沖縄ではトイレでブタを飼い、人糞をブタの寝床に回す〈写真提供:原田信男氏〉

──なるほど。古代の肉食禁止令がきっかけで、日本独特の米文化が発達していったのですね。

原田 はい。米は尊い聖なる食べ物としての位置を確立し、祭祀の中でも重要な役割を果たすようになります。さらに江戸の幕藩体制下では、「石高制」という形で、ほとんどの経済価値を米で表わすという、世界的にも特異な社会システムが誕生しました。

── 一方、肉を排除した代わりに、重要な動物タンパク源である魚に注目が集まり、刺身や鮨などという食文化が生まれたともいえます。食と歴史は、実に密接な関係にあることがよく分かります。
ところで、現在われわれは当たり前のように肉を口にしますが、肉食の禁忌が解かれたのはいつだったのですか?

 原田 明治4(1871)年、天皇による肉食再開宣言が打ち出されたときです。ここから文明開化が一気に進み、日本食文化が大きく進展していきました。


決して消えない米の存在。日本の食文化に誇りを!

──しかし最近では、「米離れ」という言葉をよく耳にするようになりました。食生活の洋風化が急速に進み、米の消費量が減少しているとも聞きます。現代人の米に対する意識が変わってきたということでしょうか。

原田 そうかもしれませんが、日本人の米とのつながりは意外に根強いですよ。
例えば、海外に出かけたときなど、最初は現地のものめずらしい食事を楽しめていても、3日目くらいから無性に米が食べたくなったりしませんか? 日本の米文化には保守性と革新性とが同居していて、特に保守性のほうが強い。つまり、食料を取り巻く環境がどんなに変化しても、日本人の米へのこだわりは、簡単には消えないということです。

江戸時代の旅人の食事記録の再現料理。米のご飯と味噌汁に香の物、魚が基本となる。草津宿街道交流館で撮影したもので、料理の再現は奥村彪生氏〈写真提供:原田信男氏〉

──確かに思い当たります。われわれ日本人には、米から離れられない食文化のDNAが組み込まれているということなのでしょうね。

原田 そうとも言えますね。また、最近では米をベースにした鮨などの日本食は海外でも幅広く受け入れられています。海外での評価も高い食文化が日本で生まれたことに、誇りを持ち続けていきたいものです。

──おっしゃる通りです。文化の国境がなくなり、どれだけグローバル化が進んだとしても、日本人であることを忘れず、日本独自のすばらしい食文化を内外に伝えていくことも大切だと実感します。
本日はありがとうございました。


近著紹介
『歴史のなかの米と肉』(平凡社)

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