こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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あの独特な奏法が特徴の「津軽三味線」。 伝統音楽とされながらも、歴史は意外に浅いんです。

独特な奏法が特徴の「津軽三味線」

弘前大学教育学部美術教育講座准教授

冨田 晃 氏

とみた あきら

冨田 晃

1963年静岡県生れ。85年職業訓練大学校木材加工科卒業。88年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。89〜92年青年海外協力隊員(ホンジュラス国派遣、造園・木工)、92〜95年AKIRA ART OFFICE主宰(ホンジュラス)、98年ニューヨーク市立大学留学、2002年弘前大学教育学部助教授を経て、現在に至る。著書に『祝祭と暴力:スティールパンとカーニヴァルの文化政治』(二宮書店)、写真集に『津軽の四季』(弘前大学出版会)など。写真家として活躍するとともに、中米の少数民族ガリフナをはじめカリブ海地域の音楽文化に造詣が深く、『季刊民族学』などに多数の論文を発表。弘前大学では津軽三味線サークルの顧問を務めるほか、スティールパンやグラスハープなど幅広く音楽活動を行なっている。

2011年7月号掲載


「三味線」の祖型は、中国の「三弦」と沖縄の「三線」

 

──先生が、国立民族学博物館の季刊誌『民族学』にご執筆されていた『弦の響き〜津軽三味線の形成と現在』を拝読させていただきました。津軽三味線誕生までの歴史や、津軽の文化、独自性など、とても分りやすく書かれてあり、あらためて津軽三味線に興味を持った次第です。

本題に入る前に、三味線誕生の歴史について教えていただけますか。

冨田 三味線の原型とされる、中国の「三弦」と沖縄の「三線」が日本に入ってきたのは、およそ500年前の室町時代のことです。

三弦は、今から2000年以上前の秦の時代に中国で広がり、北方の遊牧民族の弦楽器クーブーズからヒントを得て、南方の漢民族がニシキヘビの皮を張ってつくったものです。

一方の三線は、中国から伝わった三弦をもとに沖縄でつくり出されたもの。漢民族の三弦と同様、ニシキヘビの皮が張られており、三弦も三線も爪で弦を弾いて音を出します。

──でも、三味線はバチを使って演奏しますよね? どうしてバチを使うようになったのでしょう。

冨田 琵琶という楽器はご存知ですか?

──はい。琵琶法師で有名な、あの琵琶のことですね。

冨田 そうです。琵琶は、中国や朝鮮の宮廷楽器として使用されていたものが、7〜8世紀頃、日本に持ち込まれました。

──そういえば、日本古来の雅楽では琵琶が使用されています。一方、三味線は含まれていませんね。

冨田 そうなんです。琵琶は宮廷楽器として定着する一方、携帯性の良さからか、旅芸人の楽器としても使われるようになり、平安時代の中期頃からは、盲目の僧侶達が琵琶を弾き語りながら旅をし始めたことで、琵琶法師の楽器として広がっていったのです。

そのうちに、琵琶法師達は琵琶よりも音域が広く、自由な音程が出せる三弦・三線と出会います。しかし彼らは、中国や沖縄でそれらの楽器がどのように使われていたのかまったく知りませんでした。そこで、自分達が弾いていたようにバチを使って奏で、また、三弦や三線を参考に自らの楽器をつくる時には、ヘビ皮にこだわることなく、身近にあるネコの皮を使ったのです。

──なるほど。それによって三味線は「バチ奏法」に変り、同時に楽器としての進化も遂げたんですね。

 

津軽の風土と制度により、津軽三味線は生れた


──三味線は現在、長唄や歌舞伎、お座敷芸など、日本のさまざまな芸能分野で使われています。津軽三味線とは奏法も楽器としての違いもあるようですが、どのようにして「三味線」から「津軽三味線」へと変っていったのですか?


冨田 津軽は降雪量が多く、1年の4分の1程の間は雪に覆われます。しかし、そうした閉鎖性の強い津軽にも出入りする人々がいました。

例えば、参勤交代で江戸と行き来する大名達。彼らは、江戸で流行していた浄瑠璃の一種である義太夫や、それに使われていた太棹の義太夫三味線を、藩公認の芸能として弘前に持ち込みました。また、大阪・堺港を拠点に日本海に沿って交易する商業船「北前船」は、九州の「はいや節」が「佐渡おけさ」や「津軽あいや節」となって各地に根付いていったように、航路に沿って民間芸能を伝えていったのです。

──なるほど。長唄や歌舞伎などに使われている三味線は細棹ですが、確かに津軽三味線は太棹です。これは、義太夫三味線がルーツだったんですね。

弘前公園に咲く満開の桜を背に、仲間とともに三味線を弾く冨田氏。桜の満開はほんの1日だけ、夕方には花吹雪、翌日には葉桜になるという〈写真提供:冨田 晃氏〉

冨田 はい。それと、盲目僧の芸能者「ボサマ」が出入りしたことも挙げられます。

ボサマは、琵琶法師の流れをくむ盲目僧の組織「当道座」に属し、何人かで1組となって、三味線を弾きながら旅をして回っていた者達のことです。が、中には一行から別れていく者もいて、「はぐれボサマ」と呼ばれるようになりました。当道座を破門された彼らは、人の家の前で勝手に芸を行なう「門付芸」などで、米や金をもらって生きていくしかなかったのです。

──門付けとなると、まずは強烈な音で、家の中にいる人を外に連れ出さないといけませんね。

冨田 おっしゃる通りです。そのために、バチで力強く叩いて音を出す「叩き奏法」を用いました。また、家人を惹き付けるために、その場の雰囲気に合せて芸をつくることも必要でした。独特の津軽三味線の奏法は、こうして生れていったというわけです。

──なるほど、そうでしたか。あの叩くように弾く奏法というのが、何といっても津軽三味線の大きな魅力になっていますね。

冨田 一方、強烈なバチ捌きと寒い冬に耐えるため、ネコ皮より丈夫なイヌの皮を張るようになったのも、津軽の特徴といえます。

──津軽三味線は、津軽の風土を色濃く反映しているんですね。

ところで、津軽三味線が全国に知れ渡ったのは、昭和の高度経済成長期を過ぎてからのことだとか。もっと古くから世の中に浸透したものと思っていましたので、少し意外な気がしました。


冨田 そうなんです。第二次世界大戦の敗戦から復興し、高度経済成長期を迎えると、各家庭にテレビが普及するようになりました。津軽の三味線奏者・白川軍八郎の弟子であった三橋美智也が上京し、テレビで演奏が放映されるようになったことから、津軽三味線の音色は身近なものになったのです。

しかし何といっても、津軽三味線を決定的に広めたのは、盲人の三味線奏者高橋竹山です。すでに1963年に三味線のソロアルバムを全国リリースし、全国公演も始めていたのですが、70年代に入り、多くのマスメディアが彼を取り上げるようになり、「高橋竹山」と「津軽三味線」が、あたかも一つのものであるかのように一体化したイメージとなって定着したのです。

 

あるべきところに「ない」ものをつくる面白さ


──今や、全国区となった津軽三味線は、老若男女を問わず、最近では特に若い世代の人達に人気があるそうですね。

先生が津軽三味線を始められたきっかけは何だったのですか?

冨田 私は静岡県で生れ育ったのですが、子供の頃から何となく、津軽三味線のことは気になっていました。それが縁あって弘前大学で教鞭を執ることになり、「これで津軽三味線に触れることができる」と期待したのです。ところが、着任して驚いたことに、大学に津軽三味線のサークルがなかったのです。

──当然、あって当り前だと・・・。

冨田 はい。しかし世の中には、あって当り前のところにあるべきものがない、ということが往々にあります。「ない」ものは誰かが埋めないといけないし、つくらなくてはならない。私は、そうした「ない」ものをつくるのが自分の務めだと思っているところがありまして。それで、弘前大学になかった津軽三味線サークルを自ら立ち上げたのです。

──そうだったんですか。サークルでは、学生の皆さんにどのような指導をされているのでしょう。

冨田 自分が関わるからには、社会的な意味を持たせたいと思っています。ですから学生達には、ただ楽しめばいい、といった気持ちで活動してほしくはありません。少なくとも人前で演奏するからにはプロ意識を持って弾くようにと指導しています。

──そういえば、今年2月のコンサートでは1,200名もの観客を集めたのだとか。プロ意識を持っているからこそ、それだけ多くの人の心を惹き付けることができるんですね。

2005年に結成された「弘前大学津軽三味線サークル」。現在は50名ほどのメンバーで活動しており、他県からも数々の演奏依頼を受けている(写真上)。津軽三味線の練習は、「レッスン」「個人練習」「合奏」からなり、時折プロの奏者から指導を受けることもあるのだとか。個人練習の後に合奏練習を行ない、息の合った演奏表現に仕上げていく(写真下)〈写真提供:冨田 晃氏〉

ところで、先生は青年海外協力隊員として中南米に派遣された際、カリブの先住民ガリフナ族の文化に強く惹かれ、現地の舞踊や音楽についてご研究されたと伺っております。ガリフナの舞踊・言語・音楽は、2001年ユネスコの第1回世界無形文化遺産に認定されているそうですね。大変ユニークな研究テーマだと思います。また、そのほかにも幅広くさまざまなご研究をされていますが、今後の抱負をお聞かせください。

冨田 これからも、なぜかまだ存在しないもの、新しいものをつくり続けていくつもりです。そうした姿勢を示しながら、学生達にも、流行に踊らされることなく、「時代をつくる」人になってほしいと強く願っています。

──「時代をつくる」意識を持った人が増えていけば、世の中、もっともっと面白くなりそうですね。新しいステージでの先生のご活躍を楽しみにしています。

本日はありがとうございました。


近著紹介
『月の光』((株)オーマガトキ、(株)新星堂)

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