こだわりアカデミー

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本対談記事は、アットホーム(株)が全国の加盟不動産会社に向け発行している機関紙「at home time」に毎号掲載の同名コーナーの中から抜粋して公開しています。宇宙科学から遺伝子学、生物学、哲学、心理学、歴史学、文学、果ては環境問題 etc.まで、さまざまな学術分野の第一人者が語る最先端トピックや研究裏話あれこれ・・・。お忙しい毎日とは思いますが、たまにはお仕事・勉学を離れ、この「こだわりアカデミー」にお立ち寄り下さい。インタビュアーはアットホーム社長・松村文衞。1990年から毎月1回のペースでインタビューを続けています。
聞き手:アットホーム株式会社 代表取締役 松村文衞
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物理から生物、科学、そして民族学を転々として… とうとう河童に到達しました。

河童の誕生と変遷

生物学者(民俗生物学) 立正大学仏教学部教授

中村 禎里 氏

なかむら ていり

中村 禎里

1932年東京生れ。58年東京都立大学理学部生物学科卒業。同大大学院理学研究科生物学専攻博士課程修了。67年より立正大学教養部講師。その後、同助教授、教授を経て、95年から仏教学部教授に。専攻は科学史、民族生物学。これまで、17世紀イギリスの生物学史、現代日本の生物学と社会の関連の研究等の研究歴を持つ。主な著書に「ルイセンコ論争」(67年、みすず書房)、「生物学と社会」(70年、同)、「生物学の歴史」(73年、河出書房新社)、「血液循環の発見」(77年、岩波新書)、「日本人の動物観」(84年、海鳴社)、「動物たちの霊力」(89年、筑摩書房)、「狸とその世界」(90年朝日選書)、「河童の日本史」(96年、日本エディタースクール出版部一写真)等がある。日本科学史学会会員、日本医史学会会員。

1996年7月号掲載


河童は、用水や運河から生れた

──先生は河童の研究されていて最近「河童の日本史」という本もお出しになりましたが、まず河童とはなんなのか、どう誕生したのか、うかがいたいと思います。

中村 河童は、ご存じの通り、日本各地の民話の中に出てくる想像上の生き物、架空の動物ですが、日本の民族学の創始者ともいえる人たちから言わせると、河童とは「水の神様が零落した姿」だということです。確かに、もともと本にはワニとか竜とかヘビといった動物が、水の神様として登場してくるような神話も多く、河童の場合も基本的にはそういったとらえ方ができるのかもしれませんが、ただもうちょっと具体的に言うと、河童というのは江戸時代、人々の生活との関わり合いの中からできた動物のイメージで、私は「小妖」というような感じでとらえています。少なくとも、竜の姿をした水の神様といったような凄味はありません。

──なぜ江戸時代に河童が生れてきたんでしょうか。

中村 ちょうどそのころから、農村では用水ができて農地が開拓されるようになり、また都会では、水運のための運河ができたということがあります。人家に接して用水や運河、お堀ができてきますと、子供が落ちて死ぬことも多くなる。そういうことが、小さい水の妖怪の誕生につながっていったのではないかと思っています。


女性のお尻も触ったりするいたずら好きな妖怪

──なるほど。それでその用水や運河から生れた小妖は、いったいどんなことをしたんですか。

中村 妖怪は、本格的に凶暴な妖怪「凶怪」と、いずらっぽい妖怪「戯怪」の大きく二つに分かれるんですが、河童は明らかに戯怪の仲間に入ると思います。江戸時代の河童がどんなことをしたかというと、例えば、川に泳ぎに来た子供の足を引っ張る、馬を水中に引き込む、トイレで女性のお尻を触る、といった具合です。だけど、馬を引く場合は必ず失敗して逆に厩に引き摺り込まれ、最後は人に捕らえられることになっています(笑)。

──いずれにしても、そんなに大きな悪さはしなくて、いつも最後は人間に叱られたり、命を助けてもらってお礼をすることになるわけで、庶民にとっては痛快な相手だったんですね。

中村 そういう意味では、哀れむべきかわいそうなところもあるんです。子供を水中に引き込むのは本当に悪いことだと思うんですが、それ以外はほとんどうまくやった試しがない(笑)。

──全国的にだいたいキャラクターは同じですか。

中村 ちょっと違うのは九州です。九州の河童は相当悪い。女性に大してお尻を触るなんてことじゃなく、もっと酷いことをするんです。江戸時代の中ごろに、女性が河童の子を産んだという話があるほどです。

しかし、時代とともに、文明の進歩とともに、河童の性格とか行動は少しずつ弱まっていき、だんだんわざわざしなくてもいいようなばかなことをするようになっていくんです。柳田国男さんは「文明の進歩とともに妖怪の力が衰えた」と言っています。たしかにそれはあると思います。

最近では、日本酒「黄桜」のコマーシャルに家族で登場するほどに大衆化しマスコット化されたイメージになった…。河童には本来、雌はいないはずなのにね(笑)。


猿とスッポンが合体したのが河童の原形

──私がイメージする河童の姿はそれこそ「黄桜」なんです。でも先生の本を拝見すると、河童を描いた絵も実にさまざまなパターンがあって、最初のうちは猿みたいな顔の河童が多い。これにも時代とともに流れがあるんですか。

中村 河童の具体的な形に関する最初の情報は、1600年代にイエズス会の宣教師が編纂した「日本・ポルトガル辞書」です。それには、河童とは「水の中に棲む猿のようなもので、人のような手足がある」と書いてあります。この当時の宣教師は九州を拠点として京都あたりまでは行っていましたから、少なくとも西日本一帯の河童のイメージというのは猿に近かったと思います。

──甲羅や頭の皿なんかはあったんですか。

中村 たぶん、西日本の河童にはもともと甲羅はなかったと思われます。甲羅はどこから来たかというと東日本からでしょう。東日本の河童というのはスッポンのイメージですから、西の猿イメージと東のスッポンイメージが合体したのが原形だろうと思うんです。

一方、唯一ほぼ両者に共通しているのが、皿です。でもどこから来た発想なのかは分からない。これには諸説があるんですが、非常に単純に考えれば、昔は男の子というのはみんなおかっぱ頭だったわけで、真ん中は剃っていないこともあるけれど、なにかその辺にヒントがあるんじゃないか、と考えられるわけです。そういう頭だと水も溜めやすいですしね。

──色っぽい雌の河童も出てきて、妖怪というイメージからはどんどん遠のいていますが、これからの河童のイメージについてはいかがでしょう。

中村 いずれにせよ、河童は人の心の産物であり、実在しているわけではないのだから、その時代、時代で人々のイメージ文化の膨らみに何らかの貢献をすればいいのであって、「黄桜」の河童も大いに結構だと思います。

要は、日本人の広い意味での文化イメージの中で、過去の伝統あるものがどうやって受け継がれ、また、そのイメージを豊かにしていくか、ということなのであって、昔の人間から言えば、「黄桜」の河童なんていい加減だと怒る人もいるかも知れないけれど、そういうものではないんです。昔のことにこだわる必要はない。

それに、人間というのは、過去のいろんな経験の組合せの中から、もののイメージというものをつくり上げていくのだと考えています。

──日本人独自の想像力がつくり出したユニークな生き物ということになりますね。今度オリンピックを日本で開催するときには、是非ともマスコットに…(笑)。


科学者の功績より、その時代の人々に興味が・・・

──ところで、先生のプロフィルを拝見すると、研究対象分野が非常に多岐にわたっておられますね。もともとは生物学をやっておられて、そこから科学史、そして民族学ということで、ちょっと珍しいご経歴なのかなと思うんですが。

中村 それには、それを可能にした背景と、私自身の理由でそうなってしまった二つの要因があるんです。

まず、それを可能にした背景は、最初に大学の教養部に勤めたことです。今は教養部という学部はほとんどの大学からなくなってしまいましたが、当時は国立、私立を問わず多くの大学に教養部というのが設けられていました。

私はもともと理学部育ちですが、教養部には文系、社会科学系、理系と、いろんな分野がなんとなく混沌としている。だから、いろんなタイプの人間がいて、大変面白い経験もしまし、何より意義があったのは、教養部には専門の学生がいませんから、研究テーマがわりと自由だったんです。授業さえきちんとやっていれば、極端にいうと何を研究してもいい。一つのテーマにこだわらず、自分の興味でどんどん変えていくことができたわけです。

──学際的な研究が可能だったんですね。研究者にとっては、ある意味ではいい環境と言えますね。

中村 それが一つの要因です。

一方、私自身の理由というのは、もともと最初は素粒子論をやりたいと思っていたんですが、学生運動をやって一回退学処分になりまして、しばらくしてから入り直そうと思った時には年齢的なことや自分自身の興味も変化しており、生物学に行ったんです。特に生物学の歴史をやっていたんですが、やっているうちに思うようになったのは、いわゆる科学史に残ってきた科学者というのは、その時代その時代の最高の知能です。そういう人の考え方の歴史を知ることはそれはそれで重要だけれども、私はむしろその時代の人々が自然や生物をどうとらえていたかのほうが興味があった。また一方、日本に近代科学と言えるものが入ってきたのは杉田玄白あたりからですが、本格的になったのは明治維新以後です。しかし、それ以前でも日本人は自然に関する何らかの認識・知識をかなり持っていたことも事実です。これは面白いなと思いまして、だんだん科学史から現在の分野の方に移ってきたというわけです。

──そういう視点が先生の研究の特性にもなり、また、独自の分野を切り開くことにもつながっているんだろうと思います。

河童の次のテーマは何ですか。

中村 「切腹」です。史実はどうであったかということはもちろん、武士は切腹をしたけれど、一般の人たちはどういう感覚でそれをみていたのか、といったことは記録がほとんどないんです。その点難しいテーマですが…。あとまだ余裕があれば「幽霊」もやってみたい。

──まだまだ興味は尽きませんね。次回作は「切腹の日本史」になるのかな。今日は楽しいお話をありがとうございました。


近況報告

対談の最後に次回のテーマは「切腹」とありますが、予定が狂い、現在は「狐の日本史」を研究中。その次が「腹の日本史」(切腹も入る)について研究する予定とのこと。


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